「キリスト者の希望」 GAUDETE 2018年07月号(本紙第43号)

カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 部門 / 推進本部事務局

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最終更新日:2018年7月28日

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キリスト者の希望

パウロ書店で教皇フランシスコの『キリスト者の希望』が目に入り、ぱらぱらと読んでいる。どこかで「希望」を欲していたのだと思う。そして、やはり自分に必要なものだったのだと思う。

先日、北九州で映画『焼肉ドラゴン』を見た後、福岡朝鮮学校を訪ね、校長先生にお会いした。『焼肉ドラゴン』は60年代の大阪の貧しい集落で焼き肉屋を営む在日朝鮮人の家族を描いている。胸の痛くなる映画だ。校長先生もそれを見られたということで、その映画評を皮切りに素晴らしい魂の言葉を聞けた。「ある意味で、そこに描かれている在日の人々はあきらめてしまった人々です。でも、私たちはあきらめていません。子どもたちが笑顔で生きられる平等な社会を日本の善意ある人々とつくっていこうと思うのです。」と。日本社会が踏みつけてしまったこの人たちが、「あきらめない」と言っているのに、このどうしようもない暗闇の中へと入っていく日本社会にあきらめそうになってしまう自分を恥ずかしく思った。決してあきらめてはならないのだ。

教皇は言う。人々は忘れてしまっているが、パンドラの箱の底にこびりついていたエルピス(希望)から光が漏れているのだ、と。信仰も愛の行為も神をさほど驚かさない。神を本当に驚かせるのは希望なのだ、とシャルル・ペギーの詩を引用する。希望は、「旅をともにする」よう促す原動力なのだ、という。

確かに、夢みることに心を閉ざさせようとする悪の力は強い。でも、暗い時代の中にも光明を見る。7月初旬に西日本を襲った豪雨。その被災地へと早速足を運びボランティア活動を炎天下の中で行なっている広島教区の青年たちは、苦しんでいる人たちと「旅をともに」しようとしている。その姿の中に希望を見る。

広島教区は「仕えることへのチャレンジ」へと準備を進め、それはさらには2020年度からの「社会へのチャレンジ」の三年間に向けられている。その先には100周年に新しく生まれ変わった広島教区というビジョンがある。率先して、青年たちは社会へのチャレンジへと心と体を向けている。

先日、下関労働教育センターで社会教説の学習会があり、憲法9条について皆で考えた。キリスト教の目指す平和はただ単に「戦争がないという状況」ではない。「聖書の平和は、今の状態はもっと良くなる、神は、もっと良い方向に導いてくださるという将来、あるいはその完成である終末を見ている態度である。(光延神父)」現状を突き抜けたところにある平和への希望。きっと広島教区はもっともっと平和の使徒となっていけるだろう。この日本社会をもっとまともな、人を傷つけないだけでなく、傷を癒していく社会へと変えていけるだろう。そんな希望を持って、取り組んでいきたい。社会へのチャレンジを具体的にどういうビジョンをもってやっていくのか。地区、小教区でもぜひ話しあってほしい。

西日本豪雨災害

西日本豪雨災害の被災者にはお見舞い申し上げます。

被災者支援を直接できなくとも、司教区より発表のあった「被災者のための祈り」を唱えることも立派な被災者支援になります。皆様、お祈りをお願いします。

いつくしみ深い神よ、

「平成三〇年七月豪雨」(西日本豪雨)とその二次災害によって、いのちを奪われた方々を、あなたの家に迎え、永遠の安息を与えてください。

あなたは、また、苦しみの中にある人々とともにいて、慰めてくださいます。

すべての被災者を顧み、必要な助けの手を差し伸べ、遭遇している困難を乗り越える勇気と力で強めてください。

そして、周りの善意の人々が互いに協力して、支援の輪を広げていくことができるよう、助け導いてください。

すべての被災者が一日も早く平穏な生活に戻ることができますように。

わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

また、募金も募集しています。

郵便振替口座番号:01310-0-16760
加入者名:カトリック広島司教区
通信欄には「西日本豪雨災害支援」とお書きください。

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先月より教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」の抜粋を紹介しています。

教皇フランシスコは、わたしたちに問いかけておられます。わたしたちにとっての喜びである福音をなぜ、他者と分かち合わないのですか?

わたしたちの使命は、この日曜日「牧者であるキリストに導かれ、福音の喜びを告げ知らせることができますように。」(年間第16主日の嘆願の祈り)と唱えたとおりです。

抜粋

Ⅱ 甘美と慰めに満ちた福音宣教の喜び

9 善は、つねに広がっていくものです。真理や美に関するすべての真正な体験は、おのずから広がりを求め、深い解放を体験した人はだれでも、他者の必要に対して敏感になります。伝えることによって、善は根づき、発展します。したがって、尊厳ある充実した生を送るには、他者を認め、他者の善を求めることのほかに道はありません。聖パウロが次のように語っているのも不思議ではありません。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」(二コリント5・14)。「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリント9・16)。

10 (前略)「いのちは与えることで強められ、孤立と安逸によって衰えます。事実、いのちをもっとも生かす人は、岸の安全を離れ、他者にいのちを伝えるという使命に情熱を注ぐ人です」。教会の福音宣教への招きは、キリスト者にとって、自己実現の真の活力を示されることにほからならいのです。「ここにわたしたちは人間のあり方についてもう一つの深い法則を見いだします。つまり、他者にいのちを与えるときこそ、いのちは成長し、成熟します。つまるところ、それが福音宣教です」。したがって、福音を宣教する者はつねに、弔いのときのような顔をしていてはなりません。熱意を取り戻し、さらに増やしていきましょう。「たとえ涙のうちに種を蒔かなければならないときでも、甘美と慰めに満ちた福音宣教の喜びを保ちましょう。・・・・・・現代世界は、時には苦悩のうちに、時には希望のうちによき知らせを求めています。願わくは、現代の人々が、悲しみに沈んだ元気のない福音宣教者、忍耐を欠き不安に駆られている福音宣教者からではなく、すでにキリストの喜びを受け取り、その熱意によって生活があかあかと輝いている福音宣教者・・・・・・から福音を受け取りますように」。

永遠の新しさ

11 新たな福音宣教は、信者に(中略)、新しい信仰の喜びと、福音宣教の豊かさをもたらします。事実、その中心と本質は、つねに同一です。つまりそれは、キリストの死と復活において、ご自身の限りない愛を示された神です。その神が、信者をいつも新たにしてくださいます。どれほど老いても「新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40・31)のです。キリストは「永遠の福音」(黙示録14・6)であり、「きのうも今日も、また永遠に変わることのないかた」(ヘブライ13・8)で、その豊かさと美しさは尽きることがありません。(中略)教会はその「神の富と知恵と知識の深さ」(ローマ11・33)にたえず感嘆します。十字架の聖ヨハネがいうように、「神の知恵と知識はあつい繁みは、あまりにも深く、かつ広大無辺であるため、霊魂は、それについて、いくら知るところがあっても、なおもっと深くその中に入ってゆくことができる」のです。または聖イレネオがいうように、「キリストの到来はすべてに新しさをもたらす」のです。キリストはその新しさによって、わたしたちの生活と共同体をつねに刷新することができます。(中略)わたしたちが原点に立ち帰ろうとし、福音の本来の新鮮さを取り戻そうとするたびに、新しい手段が生み出され、現代世界にとって新たな意味を豊かに備えたことば、さまざまな表現形態、効果的なしるしなどの、創造的な方法が生み出されます。事実、あらゆる真の福音宣教は、つねに「新しい」のです。

12 (前略)わたしたちが発見し、理解しうる以上に、何よりもまず主のわざだからです。イエスは「最初にして最大の宣教者」です。そのようなかたちの福音宣教であっても、主導権はいつも神に属します。神はご自分とともに働くようわたしたちを招き、精霊の力によってわたしたちを駆り立てます。真の新しさは神ご自身が神秘的に生み、息を吹き込み、引き起こし、方向づけ、さまざまなかたちで歩みをともにしてくださるものです。教会生活全体において、主導権はいつも神にあることを示さねばなりません。「神がまずわたしたちを愛し」(一ヨハネ4・19)、「成長させてくださる」(一コリント3・7)かです。この確信をもっていればこそ、わたしたちは、自分たちの生活すべてにかかわる努力と挑戦が求められるこの務めの最中にあっても、喜びを保つことができるのです。この使命は、わたしたちにすべてを要求しますが、同時にすべてを与えてくれるのです。

13 (前略)記念は、わたしたちの信仰のいわば「申命記的」な次元であり、イスラエルの民の記念にもたとえられます。イエスは教会の日々の記念として、わたしたちに「エウカリスチア」を残しましたが、この記念は、わたしたちをより深く過越の神秘へと導き入れます(ルカ22・19参照)。福音宣教の喜びは、感謝に満ちた記念の深奥でたえず輝いています。それは、わたしたちが願わねばならない恵みです。使徒たちは、イエスがその心に触れたときのことを忘れることはありませんでした。「午後四時ごろのことである」(ヨハネ1・39)。この記念によってわたしたちは、イエスとともに「おびただしい証人の群れ」(ヘブライ12・1)を思い起こします。その中には、わたしたちに信仰者としての喜びを味わわせるために、特別な影響を与えた人たちがいます。「神のことばを語った指導者たちのことを思い出し」(ヘブライ13・7)ます。また、身近にいてわたしたちの信仰へと導いてくれた素朴な人々もいます。「あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りました」(二テモテ1・5)。信仰者とは、根本的に「記念する者」です。

著作権物使用許諾(抜粋部分:使徒的勧告 福音の喜び)

  • カトリック中央協議会(中央協著承PB第2018-16号)(2018年6月20日付)

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聖書の通読と写経の取り組みについて

この春から推進している聖書の通読・写経キャンペーンの取り組み報告の写真が届きましたので紹介します。

また、皆様からの取り組み報告がありましたら、平和の使徒推進本部事務局までお知らせください。写真があるとうれしいです。

報告:写経について(防府教会)

2023年広島教区創立100周年を迎える年、私たちの防府教会は、創立70周年を迎えます。この二つの節目の年に向けて、7月1日より防府教会で写経の取り組みが始まりました。

まず防府教会で一冊の聖書全巻を写経するために、聖書を54のパーツに割り振り、みんなで分担して担当することになりました。これとは別に個人で聖書全巻の写経に挑戦する人もいます。

有難いことに聖堂に写経コーナーが設けられ、各自自由にその場所を利用して写経に取り組めます。聖堂に入れば、いつも誰かが写経している姿に出会い、それぞれの思いを込めて机を並べて写経していると、それだけで信徒の繋がりが深まるように感じます。

また、写経することによって、み言葉との新たな出会いや感動、そして自分自身との出会いにも気付かされます。

この写経の取り組みによって、私たちが心を一つにして防府教会創立70周年へのより良い捧げものができますように。また、“キリストの福音(みことば)を伝えるために聖書を読む”という広島教区の使命に生きることができますように…

どうかこの恵多き写経の取り組みが最後まで成し遂げられますように神さまの御力添いを願わずにはいられません。

キリストの福音(みことば)を伝えるために聖書を読む(聖書通読・聖書写経キャンペーン) (平和の使徒推進事項,2018年04月07日掲載)

その他キャンペーン中

ロザリオの花束をファティマへ(2018年9月末まで募集)

祈りのなぞり書き(試用)

紙面発行版

自由にダウンロードして利用ください。

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