9月14日 加藤 信也 神父(祇園カトリック教会,2014年9月15日確認)

カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 推進本部取組 / 第1の柱:平和

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最終更新日:2014年9月15日

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説教本文

十字架刑がローマ帝国の処刑の方法であることは皆さんご存知です。一方、ユダヤ人たちの処刑方法は「石打ちの刑」でした。私たちはこうしたことを知識としては持っていますが、その実際の悲惨さまでには思いが至らないものです。数年前、現代において、まだ石打ちの刑が行われているということを記事を読んで驚いたことがあります。中東や北アフリカのイスラム圏では、まだ石打ちの刑が行われている。それに対して人権団体が抗議している、とのことでした。

聖書には、石打ち刑について詳しく書かれた箇所はありません。数年前に読んだ記事によれば、まず穴を堀り、男性は腰まで、女性なら胸まで埋めて動けなくする。そうしておいて、石を投げつける。もしもその人が逃げ出すことができたなら、石打ちは続けられず、その人は死から逃れることができるそうです。

十字架刑については、私たちはもう少し詳しい知識を持っています。十字架刑はローマの死刑としては最も残酷なものでした。この刑は異民族や、ローマ帝国の転覆を謀る、あるいはクーデターを起こした人に対して執行されました。もともとはローマで生まれた処刑法ではなく、いわゆる蛮族が用いていたものが、ペルシャからカルタゴ経由で伝わったと言われています。私は以前、教誨師をつとめたことがありますが、死刑囚と直接言葉を交わす機会はありませんでした。絞首刑も恐ろしい処刑の方法ですが、イエスの時代には、絞首刑は十字架刑より軽いと刑罰と考えられていました。

その後、十字架のモチーフは装飾品にも用いられるようりました。しかしこうやって見れば、十字架は決して素晴らしいもの、喜ばしいものではなかったことがわかります。それどころかイエスの時代には、十字架につけられた人は、神に呪われたものとさえ見なされていたのです。本来は忌み嫌われる十字架が賞賛の対象になった。残酷な処刑道具の形状がが装飾品にまで用いられるようになった。ここには大きな逆転があります。

そもそもイエスの生涯そのものが、逆転の価値観で成り立っていると言えます。人がよしとするものを神は好まれない。神がよしとされるものを我々は受け入れない。たとえば富、権力。我々は強いこと、大きいことに価値を見いだしますが、神は弱いもの、虐げられるものに目を向けられる。我々から見れば非常識と思われること、この世の常識と逆らうことを受け入れる。この世の「重力」に逆らう、「無重力」の不安定さに身をゆだねる。これがイエスに従うということなのかも知れません。

イエスは言われます。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5.43-44)。

しかし誰が敵を愛することができるでしょう。もし敵だとわかれば逃げた方がいい。あるいは攻められる前にやっつける。我々はそう思ってしまいます。

しかしイエスは「敵を愛しなさい」と言われます。

今日の福音朗読に登場するニコデモは、イエスを殺そうと企てるファリサイ派の議員でした。彼はファリサイ派でありながら、夜中に一人でイエスのもとを訪れます。ニコデモはイエスを尊敬していました。今日の朗読箇所の少し前に、こうあります。

「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うひとはできないからです」(ヨハネ3.2)。

神が共にいなければ、あなた(イエス)のような生き方はできない。これがとニコデモの思いです。一方、イエスはニコデモに特別な配慮をしています。今日の福音朗読で、イエスは「あなたがた(ファリサイ派)に殺される」とは言わず、「あげられる」という言い方をしています。

イエスとニコデモとの出会いは密かな出会いでした。しかし、イエスが教えた愛は、夜ひ密かに告げられるようなものではありません。国境を越え。すべての人に伝えられるべきものです。だからイエスは弟子たちに、全世界に行って福音をのべ伝えなさい」と言われたのです。

イエスは最終的に、その愛を伝える場所として高いところを選ばれました。低く生まれ、己を低くして生きられたイエスが、死に際して高いところ、誰からも見えるところから全世界に「敵を愛しなさい」と告げられた。これがイエスの十字架の死です。

死に際しては高いところ、誰からも見えるところから全世界に「敵を愛しなさい」と告げられました。これがイエスの十字架の死の意味するところです。

神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛されました。愛とは与えること。それは最も大切なものを失うこと、すべてを与え尽くすこと、(冨も権力も名誉も)何も持たない弱さを受け入れることでもあります。

この説教本文は

平和の使徒推進本部が祇園カトリック教会主任司祭から転載の許諾をもらっています。

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