連載⑨「今、殉教を生きるとは?」

カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 広島教区年間テーマ関係

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最終更新日:2017年2月1日

(3)アッシジのフランシスコ遠山甚太郎

アッシジのフランシスコ遠山甚太郎は、教区5人の殉教者のなかで一番若く24才で帰天した武将でした。

甲斐の国(現在の山梨県)浅野幸長(よしなが)の家臣の子として1600年関ヶ原合戦の年に生まれました。合戦の恩賞として紀伊の国和歌山へ主君が入場したとき遠山家も従いました。浅野は和歌山に宣教師を招き、施療院を開設して宣教の許可を与えています。

しかし、1613年、幕府はキリシタン禁令を発布し、1614年には宣教師や高山右近等を国外追放しています。

1616年、16才になった甚太郎は受洗。アッシジのフランシスコの生き方に憧れて霊名をフランシスコとしています。同時に若いときの夢でフランシスコ会第3会(コルドン・紐の組)に入りました。遠山の屋敷は潜伏している宣教師の拠り所となり、青年甚太郎は和歌山教会の支柱となりました。

1619年、主君浅野長晟(ながあきら)が広島転封に従って彼も広島へ移り、甚太郎は、ここでマチアス庄原市左衛門とヨアキム九郞右衛門に出会います。甚太郎には、祈りの生活から生まれた稀に見る深い静けさと柔和がありましたが、一方信仰に関しては相手が大名であれ親戚であれ決して譲ることはなかったと言われます。

1623年、長晟はキリシタン改めに着手。甚太郎の留守の時に来た役人に、家人が勝手に「(甚太郎は)信仰を棄てます」と書いたのを知って、それは困ると、「信仰は棄てません」と手紙を書いて出しています。このことで自身の殉教が近いことを悟り、広島に居合わせた神父に生涯の総告白をし、翌日のミサで聖体の秘跡を受けました。そして数日前から牢に入っていた友人のマティアス庄原市左衛門に、励ましの長い手紙を書きました。それは1624年2月16日でした。

その日の午後4時頃役人がやってきて、「切腹をしろ」と言う。その主君の命令に、「私はこれを神の御摂理と御慈愛の並はずれた印とみなしています。切腹は天からの知らせです。神様からの素晴らしい御国の知らせです…」「私はキリシタンで、自殺は許されません」と言って、首をはねられ殉教します。ロザリオを手に取り、マリア様に祈りながら殉教していきます。享年24才。

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掲載日2013年3月15日
更新日2017年2月1日
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編集者web管理者(竹内)
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