「主のあわれみを味わう」GAUDETE 2019年07月号(本紙第50号)

カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 部門 / 推進本部事務局

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最終更新日:2019年8月3日

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巻頭言 「主のあわれみを味わう」

7月31日に修道者としての最終誓願をたてることになりました。その前に三日間の黙想をしておくようにという指示があり、山口レジデンスでカンガス神父さんに指導をお願いして三日間の黙想を行いました。カンガス神父さんが一緒の空間にいる時はいつも、祝福されているような気持ちになります。喜びを生きているカンガス神父さんが三日間という少しの間ですが、一対一で話をしてくれたことは、とても嬉しく、心に慰めを受ける時間でした。

「回勅の『ラウダト・シ』を使いましょう。」が第一声であったことには驚いたし、感動しました。私が選んだ活動をきちんと見て、肯定してくださっているという感覚がありました。イエスのまなざしで世界を見ること、今イエスがいたらどう生きるのか、どんな行動をとるのかを見てみなさい、と言われました。そして、自然のあらゆる生きとし生けるもののうちに神の慈しみを見るイエスの感受性。空の鳥に目を向けるように促し、「思いなやむな」と言ってくださるイエスの言葉を味わいました 

 最終日は、「主のあわれみ」を味わうようにと導かれました。フランシスコ教皇が今、「あわれみ」を強調なさることは、現代への神のメッセージなのだよ、と言われました。いくつか出された聖書箇所の中で、私が目を留めたのは、イエスの足に香油を塗る、ゆるされた女性の話でした。まわりの人々は、罪びとを足に触れさせるままにしているイエスを批判したり、スキャンダルにしようとしています。自分たちは、汚れのない場所に身を置こうとしている人々。しかし、イエスは一向にそのような人々の視線を気にしません。彼に大切なのは、その女性の傷が癒されること、ゆるされた愛が流れるままにすること、その傷ついたものの人生に共にいる、ということだったのです。

 その姿にこそ今私が大切にすべき主の憐れみがあらわれていると感じました。人間のときに醜い現実の中に、傷つくことを恐れないで入っていくこと。それは決して傍目には綺麗に見えるものではないかもしれない。聖なるものにも見えないかもしれない。ある意味で、汚れの中に入って、自らも汚れることを厭わない。

 人間の弱さの神秘的な肯定。それこそが神の受肉であり、そこに主のあわれみがある。神父、修道者、信徒という生き方の選びとは別の次元の、私の存在そのものに関わる固有の召命があるとしたら、それはこのイエスの姿につながるものなのではないか、と思いました。

 カンガス神父さんの黙想指導を分かちあいました。きっと皆さまそれぞれの種の呼びかけを探し、応えていく道の助けとなると思って。

平和の使徒推進本部アドバイザー 中井淳神父

福音の喜び, 76-109, 第二章, II 司牧にかかわる者が直面する誘惑の解説

 力及ぶか分かりませんが、なるべく平易に説明したいと思います。しかし当たり前ですが、解説を読むより本文を実際に読む方が大切です。今回の部分は、少し長くても是非読むべきでしょう。それはまず指摘しておきたいこととして、この部分が聖職者の課題だけを取り扱っているのではなく、むしろ全体を通じて信徒について取り扱っているからです。教会内での様々な立場や召命に目を向けつつ、色々な角度で課題を指摘しているのです。また、元々どれも同じ言葉なのですが、表題に「司牧にかかわる者」と書かれ、また「司牧従事者」(76)や「司牧に携わる人々」(78)、「司牧活動に携わる人」(77,79)、「司牧に携わる人たち」(80)などの表現が出てきます。この言葉が用いられ、そこで述べられることが主に聖職者と奉献生活者についてとはいえ、信徒が除外されている言葉ではありません。

 大まかな枠組みを見ると、見出しがついた7つの部分で構成され、それぞれ特徴的な言葉で結ばれています。書き出してみると、「宣教の熱意を奪われないようにしましょう」(80)、「福音宣教の喜びを奪われないようにしましょう」(83)、「希望を奪われないようにしましょう」(86)、「共同体を奪われないようにしましょう」(92)、「福音を奪われないようにしましょう」(97)、「兄弟愛の理想を奪われないようにしましょう」(101)、「宣教する力を奪われないようにしましょう」(109)となります。どれも当たり前のことに見えるかもしれませんが、それが出来ていないからそれぞれ指摘される課題があるわけです。

 その他、それぞれの個所で色々な問題点が比較的具体的に指摘されますが、それを細かく上げるとA4,1枚には収まりません(書き出したらA4,3枚になりました)ので、それらはご自身でお読みください。中には「兄弟愛の理想」の個所のように、プロテスタントの人たちも含めて宛てている個所もあります。また、「実現不可能な計画」によって疲れる宣教者の姿や、教会よりも進んでいるかに見える社会に対して「劣等感」や「敗北感」を抱き、アイデンティティの危機に陥り信念を隠し、無駄な会議に時間を浪費したり、実際の歩み寄りも「道案内図」または運行表を美しく仕上げることに夢中になる、私達自身の姿が指摘されます。実際に読んでいて恥ずかしくなってくる位、私達の身近に小教区だけでなく色々な事業体にもこういった状況はあるのではないでしょうか?

 さて、少し読みにくいかなと思われる部分について、触れておきましょう。「内在」とか「内在論」と言った言葉が何度も出てきます。この辺の言葉は、それ程新しくもありませんが現代的な罪についての考え方が背景にあって使われています。一般的に、内在とは超越の対義語とされますけれども、文脈によっては根本的な罪としての自己中心的態度と関わる言葉だと理解しておいてください(87番等参照)。少し単純に図式化してしまうなら、片方に自己中心的な姿を、他方に他者に向かう自己超越的な姿を置いて、それを対比してみると文章が理解しやすくなるでしょう。

 罪とは他者と向き合わず、受け入れることもない、利己的だったり個人主義的だったりし、自己の内面にあるものばかりに気を取られ、要するに自己決定とそのための力が至上であるかのように考える自己中心的な態度(自分を神とするような態度です)から生じるものと言えますが、神を信じること(従うことでもあります)や福音や聖霊の働き、愛することは、そんな自己中心性から引き出す開かれた態度です。そもそも神、キリストに出会うということ自体、他者と出会うことですね。なので「他の人と結ばれるために、自分自身を出て行くことはとてもよいことです」(87)と一般的にも言えます。

 そして94番で「グノーシス主義」と「新ペラギウス主義」という特徴的な言葉で表される態度も、一見罪から離れるように見えながら実際は意識できるもののうちに閉ざされていることも、同じ図式で理解出来ます。ただ、字数が足りませんので、詳しくはお近くの神父様にお尋ねください。

玉野教会 猪口大記神父

教会公文書の紹介「福音の喜び」第二章 危機に直面する共同体 Ⅱ 司牧にかかわる者が直面する誘惑

76 (前略)愛ゆえにいのちを差し出すキリスト者がどれほどいるかを忘れることはできません。彼らは、設備の足りない病院で、病人の治療を助け、死にゆく人が心を乱すことのないよう支えています。種々の依存症の人たちに地上のもっとも貧しい場所で寄り添ったり、子どもや若者の教育に尽力しています。皆から見捨てられた高齢者の介護、対立する状況の中にあってもよい価値観を伝えようとすることなど、その他多くの行いによって、人となった神が注いだ、人類へのはかりしれない愛を伝えているのです。(後略)

77 (前略)司牧活動に携わる人のために、動機づけや心身の回復に適した場を整えなければならないことを承知しています。「十字架につけられて復活したイエスへの自分の信仰を新たにする場、自分たちの日常の不安や自分の深い問いかけを分かちあう場、自分の存在や経験について福音に基づき識別を深める場、そして、自分の個人的あるいは社会的な選択を善と美へとと方向付ける場」です。(後略)

 宣教者の精神における課題

78 現代は、奉献生活者を含め、司牧に携わる人々の多くに、自由やくつろぎのための個人的な空間に対する過度の関心が見られます。(中略)霊的生活は、何らかの慰めをもたらしてはしても、他者との出会い、世の中とのかかわり、宣教への情熱を養うこともない、いくばくかの宗教的な瞬間と取り違えられています。このように、多くの福音宣教者においては、祈っていながらも、個人主義、アイデンティティの危機、そして熱意の低下が際立ってみられます。(後略)

79 メディア文化と一部の知識人によって、しばしば教会の教えに対する、著しい不信と何らかの幻滅が伝えられています。その結果、司牧活動に携わる人の多くが、祈っているのにもかかわらず、ある種の劣等感を感じ、自分のキリスト者としてのアイデンティティや信念を、相対化したり隠したりするようになります。(中略)福音宣教が自らのアイデンティティであるとは感じられず、その仕事への献身も弱まります。彼らの宣教の喜びは消え失せ、たのひとと同じであることや、他の人が所有する物をもつことにこだわるようになってしまうのです。こうして、福音宣教の任務は強制されたものとなり、ほとんど努力することもなく、それに時間を割くこともなくなります。

80 (前略)司牧に携わる人たちには、教理的な相対主義よりも危険な相対主義が育っています。(中略)この実践的相対主義の特徴は、神がいないかのように行動し、貧しい人々がいないかのように決めつけ、他者は存在しないかのように空想し、福音のメッセージを受けていない人はいないかのように働くことです。(中略)教理的にも霊的にも固い信念を明らかに持っている人さえも、その使命において他者に身をささげるよりも、経済的な安定に固執したり、権力の座や虚栄をあらゆる方法求める生活に陥ってしまうのです。(後略)

 利己的な怠惰

81 (前略)多くの信徒は使徒職に招かれることを恐れ、自由な時間を奪われるかかわりから逃れようとしています。(中略)司祭についても同様で、自分のための時間について頭を悩ませすぎています。(中略)福音宣教にかかわることは、わたしたちに使命を与え、完全な者とし実を結ばせる神の愛に、喜んでこたえることです。(後略)

82 この問題の原因は(中略)活動のしかたがよくないことによります。ふさわしい動機づけがなかったり、活動に行き渡ってやりがいをもたらす霊性がなかったりするのです。(中略)司牧活動におけるこの怠惰には、種々の原因があるはずです。人がこの怠惰に陥るのは、実現不可能な計画を推進し、自分ができる最善のことを喜んで行わないからです。あるいは、困難な進展過程にたえられず、すべてが天から降ってくることを望むからです。また他の人は虚栄心が求める何らかの計画や成功を夢見ています。別の人は、人々との現実の出会いを失って、人間よりもその組織に注意を払う、人間不在の司牧に陥っています。そのため、歩みそのものよりも「道案内図」に熱心です。ほかにも、待つことを知らず、自分のリズムで生活を送ろうとして怠惰になる人もいます。目先の結果ばかり求めるという現代の即時性は、司牧に携わる人が、何らかの矛盾、失敗に見えるもの、批判、十字架のようなものを受け入れることを困難にしています。

83 (前略)いのちを照らし伝えるために招かれていたのに、最終的には内面の闇と疲労をもたらすだけのものに眩惑されたままの彼らは、使徒的な活力を失ってしまいます。そこでわたしは主張します。福音宣教の喜びを奪われないようにしましょう。

 不毛な悲観主義

84 福音の意喜びは、何によっても、まただれによっても、奪われることはありません(ヨハネ16・22参照)。この世界の悪や教会内の悪を、献身や熱意を失う口実にすべきではありません。それを成長のための挑戦とみなしましょう。信仰の目で見れば、聖霊が暗闇の中に光を放ち続けていることに気づくでしょう。忘れてはなりません。「罪が増したところには、恵はなおいっそう満ちあふれました」(ローマ5・20)。信仰は、水が葡萄酒に変わりうるものであることを少しずつ知るよう、毒麦の中で成長するよい麦を見付けるように迫るのです。(中略)人類の歴史と社会秩序が新しい時代に突入しようとしているときも、むしろはかりしれない神の摂理を認めるべきでしょう。摂理は、時代の流れの中で、たびたび人の期待をも超えてその働きを成就し、人間の悲運をも教会の発展へと知恵深く向けてきました」。

85 熱意と大胆さを抑圧する深刻な誘惑の一つ、それは敗北感です。(中略)「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(二コリント12・9)。キリスト者の勝利には、つねに十字架が伴います。しかし、十字架は同時に勝利の御旗です。悪の攻撃と闘うことのできるやさしさをまとった御旗です。挫折という悪い霊は、実る前に毒麦をえり分けようとする誘惑の兄弟です。それは、心配と自己中心性による不信から生まれます。

86 霊的「砂漠化」が生じている場所があるこは明らかです。(中略)自分の家庭や職場さえ、信仰を守り、信仰によって照らすことに努めなければならない、乾燥した場の一つになりえます。しかし、「わたしたちはまさにこの荒れ野から、空白から出発することによって、あらためて信じることの喜びを再発見することができます。わたしたち人間にとって信じることが何よりも重要であることを再発見することができます。わたしたちは、荒れ野の中で生きるためになくてはならないものの価値を再発見します。それゆえ、それがしばしば暗黙のうちに、消極的なかたちで示されているとしても、現代世界の中には神への渇き、人生の究極的な意味への渇きを表す多くのしるしがあります。そして、あれのにおいては何よりも信仰の人が必要です。信仰の人は、自らの生き方によって約束の地に向かう道を示し、希望を生き生きと保つからです」。とにかくわたしたちはこのような状況において、他者の渇きをいやす、人間の水差しになるように招かれています。(後略)

 イエス・キリストがもたらす新しい関係

87 (前略)他の人と結ばれるために、自分自身を出て行くことはとてもよいことです。自己に閉じこもることは内在性の苦い毒を口にすることであり、自己中心的な選択が行われるたびに人類は悪くなっていくのです。

88 (前略)多くの人は快適な私的空間を求めて他者から逃れ、あるいは付き合いをごく親しい人に限定したり、福音の社会的側面が示す現実を拒みます。(中略)これに対して福音は、他者と顔と顔を合わせて出会うことを恐れないよう教えます。他者の身体的な現存は、わたしたちに問いかけます。(中略)肉となった神の子への真の信仰は、自己を他者に与えることから切り離せません。また、共同体への帰属と奉仕からも、そして肉を備えた他者との和解からも切り離せません。受肉した神の子はわたしたちを優しさの革命へと招いています。

89 孤立、それは内在主義の言い換えであり、神を排斥した偽りの自立として表現されます。(中略)今日わたしたちが直面しているのは、無神論以上に、多くの人の神への渇きにふさわしくこたえるという課題です。人間性に欠けた提案や、肉を伴わず他者とのかかわりももたないイエス・キリストでもって、それにこたえようとしてはなりません。(後略)

90 民間信心がふさわしい信心業となるのは、それがキリスト教の信仰が大衆の文化に根を下ろしたところから生まれた場合です。(後略)

91 重要な課題は、神との人格的な責任ある関係からの逃避には、決して解決がないことを示すことです。(中略)必要とされるのは、他者と出会う正しい態度、すなわち、同行者として喜んで他者を尊重し受け入れる態度を学ぶこと、それこそが唯一の道であるという理解を助けることです。さらにすばらしいことは、他者の顔、声、要求のうちにイエスを見いだすことを学ぶことです。なお、不当にも攻撃や忘恩の行為を受けるときにも、倦むことなく兄弟愛を求め、十字架につけられたイエスを抱き締めながらたえることを学ばなければなりません。

92 (前略)隣人の聖なる偉大さを眺め、あらゆる人間の中に神を見付け、神の愛により頼むことで、ともに生きることのわずらわしさに耐え、よいかたちである御父のように他者の幸福を望んで神の愛に心を開くことのできる兄弟愛です。現代においてこそ、「小さな群れ」(ルカ12・32)がいる場所で、地の塩、世の光となる共同体として生きよう、主の弟子たちは招かれています(マタイ5・13-16参照)。(後略)

 霊的な世俗性

93 霊的な世俗性は、教会への愛及び宗教性の外観を装います。それは、主の栄光ではなく、人間の栄光と個人の幸せを求めます。(中略)見栄えに注意を払っているため、世間の目に触れるようなものが教会に入り込むと、「単に道徳的であるに過ぎないこの世のものによるよりも、際限なく悲惨な結果になるでしょう」。

94 この霊的な世俗性は、とりわけ、深く関連し合う二つの源泉からわき出てきます。その一つは、主観主義にとらわれた信仰であるグノーシス主義の魅力です。(中略)他の一つは、自己完結的でプロメテウス的な新ペラギウス主義です。この人々は、自分の力だけに信を置き、定められた法規を遵守していること、またカトリックの過去に特有の様式にかたくなに忠実であることで、他者よりも自己の力と感情のみに信を置いているのです。(後略)

95 (前略)ある人々は典礼や教理や教会の威信に関し過剰に神経を使いますが、神の忠実な民と、現代の具体的な要求とに、福音によって影響を与えることには心を砕きません。(中略)そこにはもはや福音宣教の熱意は見られず、ただ自己中心的な自己満足という、見せかけの楽しみがあるばかりなのです。

96 (前略)教会の歴史は、犠牲、希望、日々の闘い、いのちを費やしてまで行う奉仕、つらい労働における粘り強さの歴史として、栄光に満ちています。どの仕事も「額に汗して」行われたのです。それに引き替え、わたしたちは、外部からの指示を与える霊的指導者、司牧の専門家のように、うぬぼれて「こうすべきだ」と、いつまでも無駄に話しているのです。(後略)

97 この世俗性に陥った人は、上から、そして遠くから物事を見ます。兄弟の預言的な声に耳を傾けず、異議を唱えるものを退け、たえず他者の失敗を指摘し、外見にこだわります。自己の内在と関心という閉ざされた地平の心の基準を引き下げ、その結果、罪から学ぶことも、ゆるしに対して真に開かれることもありません。(中略)これを避けるため、教会は、自己から出て行き、イエス・キリストを中心にして宣教し、貧しい人々のために献身しなければなりません。(中略)わたしたちを窒息させるこの世俗性からいやされるには、聖霊の澄んだ息吹を味わうことです。聖霊はわたしたちを、神不在の見せかけの宗教性に覆われた、自己中心的な状態から解放してくださいます。(後略)

 内輪もめ

98 神の民の中でも多くの共同体の中でも、なんと争いの多いことでしょう。(中略)キリスト者の間においてすら、また然りです。霊を装った世俗精神はキリスト者の一部を、力や信望や娯楽や経済的安定を求めるうえでの妨げとなる、他のキリスト者との争いへと引き込みます。(後略)

99 世界は、争いと暴力によって引き裂かれ、個人主義の拡散によって傷を負っています。個人主義は、人間存在を分裂させ、自己の福利を求めることで互いに敵対させます。(中略)世界のすべてのキリスト教共同体に対し、特別にお願いしたいと思います。魅力と光とを放つ、兄弟としての交わりのあかしとなってください。互いに世話をし合い、互いに励まし合い,同伴するものとして,すべての人がたたえられますように。「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを胸が知るようになる」(ヨハネ13・35)からです。これは、イエスが御父に切に願った祈りです。「すべての人を一つにしてください。・・・・・・わたしたちのうちに・・・・・・そうすれば、世は、・・・・・・信じるようになります」(ヨハネ17・21)。(後略)

100 (前略)共同体の真の兄弟愛と和解によるあかしがあれば、それは必ず光となり、人を引きつけるでしょう。ですから、いくつかのキリスト教共同体の中に、奉献生活者の間にさえ、さまざまなかたちでの憎しみ、分裂、誹謗、中傷、復讐、嫉妬、自分の考えを強引に他者に押しつけようとするする欲望、容赦のない魔女狩りのごとき迫害さえもが見いだされることに、わたしはとても心痛みます。わたしたちがそのように振る舞っていて、だれに対して福音宣教ができるでしょうか。

101 愛のおきてを理解できるよう主に願いましょう。(中略)すべてを乗り越えて互いに愛し合うことは、なんとすばらしいことでしょうか。そうです、すべてを乗り越えてです。わたしたち一人ひとりに、パウロの勧告は向けられています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12・21)。さらに、「たゆまず善を行いましょう」(ガラテヤ6/9)と。わたしたちは皆、好き嫌いがあり、今もおそらくだれかに対して怒りを覚えています。せめて主に伝えましょう。「主よ、わたしは、この人にもあの人にも腹を立てています。その彼、彼女のために祈ります」。怒りを感じている人のために祈ることは、愛への美しい第一歩であり、福音宣教の行為です。(後略)

 教会におけるその他の課題

102 信徒はいうまでもなく、神の民における圧倒的多数です。(中略)共同体意識が根づき、隣人愛、信仰教育、典礼に大変忠実な多数の信徒がいますが、その数はまだ十分ではありません。そして、洗礼と堅信によって芽生えるこの信徒の責任意識は、あらゆる場で同様に表されているわけではありません。(中略)信徒の役務に多くの人が携わっていることは大いに注目されますが、社会、政治、経済にキリスト的価値観を浸透させることに、その役務が反映されていないのです。信徒の働きは往々にして教会内部のことがらに限られ、社会変革への福音の応用にかかわることはないのです。信徒の養成と専門家や知識人に対する福音宣教は、重要な司牧的課題です。

103 社会におけるじょせいのなくてはならない貢献を、教会は認識しています。(中略)個人、家族、団体への同伴や、神学的考察に新たな寄与をもたらすことにおいて、彼女たちは貢献しています。しかし、女性がさらにはっきりとその存在感を示すための場を、教会の中にまだまだ広げていかなければなりません。「女性の才能は、社会生活のすべての場において必要とされています。したがって、女性が仕事に就くこともまた、保障されなければなりません」。休会と社会構造の両者において、重要な決定がなされる種々の場への女性の参与が保障されなければなりません。

104 (前略)祭司職の権能について語る際には、次のことを忘れてはなりません。「ここで考えられているのは役割であって、尊厳や聖性ではありません」。役務的祭司職は、イエスが用いた、ご自分の民への奉仕の手段の一つですが、洗礼に由来する偉大な尊厳は、だれでもが授かることができます。(中略)女性であるマリアは、司教よりもはるかに重要です。役務的祭司職における務めが「位階的」なことである場合にも、それが「キリストの肢体としての聖性に、完全に秩序づけられている」ことに心を留めなければなりません。その鍵、その中核は、支配として権力を理解するのではなく、それは、聖体の秘跡を執り行う権能であり、それゆえ、つねに人々に奉仕する権威である、と理解することです。(後略)

105 若者に対する司牧は、社会変化の荒波を受け止め、旧来の方法を発展させなければなりません。現状の構造では、若者が、彼らの抱える不安、必要性、問題、傷に対するこたえを得られないことが多いのです。若者の不安や要求を理解し、彼らが理解できる表現で話すことを学ぶためには、わたしたち大人には、忍耐をもって耳を傾けることが必要とされます。(後略)

106 (前略)現在、共同体的なかかわりやきずなが危機に陥っている中で、世の中の悪を前にして連帯し、種々の活動や奉仕に着手する、多くの若者がいるのです。ある青年は、所属する教区あるいは他の場所で、奉仕する団体に加わり、さまざまなかたちで宣教に取り組んでいます。若者が「街をめぐる伝道者(callejeros de la fe)」であることは、すばらしいことです。あらゆる街角、あらゆる広場、地上の隅々にイエスをもたらすことを幸せに思います。

107 多くの地で、司祭職や奉献生活への召命が減っています。多くの場合、周囲を感化する使徒的情熱が共同体に欠けていることに原因があり、熱意をかきたてず、魅力を感じさせないのです。いのちに満ち、熱意にあふれ、他者にキリストをもたらそうという望みのあるところには、本物の召命が生まれます。(中略)共同体の兄弟愛と熱意は、自分のすべてを神と宣教にささげたいというあこがれを目覚めさせます。とくに、そのような活発な共同体が召命のために粘り強く祈り、若者に対して特別な奉献への道を果敢に示せば、そういった目覚めが生まれるのです。(後略)

108 (前略)現状の時のするしを見極めようとするにあたってはつねに、若者と高齢者の声に耳を傾けなければならないということです。若者も高齢者も、人々にとっての希望です。高齢者は、経験から導かれる記憶と知恵をもたらし、過去と同様の過ちを愚かにも繰り返すことのないよう呼びかけます。若者は、希望を呼び覚ましそれを膨らませるよう、わたしたちに呼びかけます。彼らは、人類の新たな動向の担い手であり、わたしたちに未来を開くからです。(後略)

109 課題は克服するためにあるのです。現実を直視し、しかし喜びを失うことなく、大胆に希望に満ちて献身しましょう。宣教する力を奪われないようにしましょう。

(カトリック中央協議会著作物使用許諾済み)

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掲載日2019年8月3日
更新日2019年8月3日
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