「心を燃やして、あきらめずに、その日を待つ」 GAUDETE 2019年02月号(本紙第47号)

カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 部門 / 推進本部事務局

キーワード(索引語): 
最終更新日:2019年2月23日

発行版

自由にダウンロードして利用ください。

  • (準備中)
  • (準備中)
GAUDETE_logo

ホームページ版本文

心を燃やして、あきらめずに、その日を待つ

教皇フランシスコ訪日に関するニュースが頻繁に報道されるようになってきました。38年ぶりの教皇訪日であり、日本からどのようなメッセージを発信されるのか注目されています。1981年2月に広島を訪れたヨハネ・パウロ二世は平和アピールの中で、このように言われていました。

「あの運命の日以来、山と積まれた核兵器の備蓄はその量においても破壊力においても増えつづけてきました。核兵器システムは依然としてどんどん新しく造られ、実験され、配備されつづけています。全面核戦争の結果のすべてを予言することは不可能です。しかしながら、たとえ現在利用できる核兵器のほんの一部だけが利用されたとしても、(その核戦争は)いやおうなしにエスカレートするということが想像できるのではないか、また、人類の破滅さえ現実のものとして起こりうるのではないか、と考えてみる必要があります。」

残念ながら、あれから世界の中で、何が進んだのでしょうか。冷戦の時代は終わったといいつつも、先ごろ、アメリカは中距離核兵器全廃条約を破棄、ロシアもそれを受けて条約からの離脱を表明するなど、新たな核兵器の開発が始まる可能性もあります。人類の破滅が起こりうる状態はまだまだ続きそうな気配です。そのような現実を目の前にして、私たちは「教皇が何を言おうが、私たちが祈ろうが、現実は変わらない」とあきらめてしまうかもしれません。しかし、さらに、ヨハネ・パウロ二世は訴えられました。 「すべての戦争は人間がひきおこす災害でありますが、その災害に直面して、『戦争を遂行することは(人間にとって)不可避なことでもなければ、必然的なことでもない』ということを、繰り返し繰り返し、人々に向かって主張しつづけねばなりません。」(太字筆者)

教皇フランシスコが広島、長崎を訪問されるとすれば、その目的は何でしょうか。それは、広島、長崎の人々のこれまでの平和への訴えを神は忘れてはいない、わたしたちは忘れてはいけないと励ますためではないでしょうか。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)。心を燃やして、あきらめず、その日を待ちたいものです。

福音の神髄 ~『福音の喜び』第1章3節を読む~

キリスト教を学び始めたばかりの人から、キリスト教はあまりにも難しいと言われることがよくある。「敵を愛せよ」とか「七の七十倍までもゆるせ」とか、そのような教えはとても実践できない。確かにいい話ではあるが、あまりにもハードルが高く、難しい要求だというのである。他にも、カトリック教会が信徒たちに教えている倫理的、道徳的な要求はたくさんある。それらのすべてを実践しなければならないと考えれば、教会から足が遠のくのは自然だろう。

宣教のためにメッセージを伝えるならば、まず何よりも「福音の神髄」である神の愛としっかり結び付けて語るべきだとフランシスコ教皇は言う。道徳的な実践は、本来、神の愛と出会い、神の愛に心を突き動かされ、「そうしなければならない」ではなく、「そうせずにはいられない」という思いに駆られて行われるものだからである。出発点には、新約聖書の時代に弟子たちが体験したような、「こんなに弱くてみじめなわたしを神はゆるし、愛してくださった」という強烈な神の愛と出会いの体験がなければならない。神の愛と出会い、神の愛で心を満たされた人は、この世の不条理の中で苦しんでいる人を見るとき、その人のために何かをせずにいられなくなる。道徳律に従って、行動せずにいられなくなるのである。わたしたちの心を満たした神の愛は、愛の欠けているところに向かって自然に流れ出してゆくと言ってもいいだろう。トマス・アクィナスが述べている通り、わたしたちの心に注がれた「聖霊の恩寵」は、愛の実践においてこそ具体的な形をとるのである。神の愛から出発するこのダイナミックな救いの業の文脈から外されるなら、道徳的な教えは単なる義務の羅列となってしまう。フランシスコ教皇はそのことを、神の愛としっかり結びついていないなら、「教会の倫理という建物は砂上の楼閣となってしまいます」と表現しているのである。

わたしたちの使命は、まず「もっとも美しいもの、もっとも偉大なもの、もっとも魅力的でもっとも必要なもの」、すなわち神の愛について語ることにある。自分自身が体験した神の愛を、自分が感じているままに、率直に活き活きと語るのである。そのときはじめて「わたしたちの提言は深遠さと真理を失うことなく簡潔になり、より説得力のある輝くものになる」。説教や入門講座などにおいても、出版物やインターネットを通しての発信においても、このことを一番に心がけたいと思う。どこかで聞いてきたような空々しい言葉の羅列や、上から目線で義務を押し付けるような言葉には、人々の心に福音のメッセージを届ける力、宣教する力がないのである。

(宇部教会 片柳弘史神父)

関連記事

備考