連載⑥「今、殉教を生きるとは?」

カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 広島教区年間テーマ関係

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最終更新日:2017年2月1日

萩、山口、広島の5殉教者

次に広島の教会の歩みを見てみましょう。

1589年、領主毛利輝元が広島に築城を開始し、1591年広島へ来ます。輝元は、叔父で久留米の城主キリシタン毛利秀包(ひでかね)の勧めにより、1599年、広島に教会を建てます。宣教師コンファロニェリ神父が活動を始めました。

1600年の関ヶ原の戦いで、毛利は西軍について敗北し、山口に移ります。その時、三入(みいり、現在の広島市安佐北区)の城主熊谷元直も主君輝元に従って移ります。これによって広島の教会は閉鎖。

1604年、宣教師マテウス・デ・コーロス神父と1人の修道士により広島の宣教が再開され、1605年には領主が地所を提供し、聖堂・司祭館が出来ました。当時400人位の信者が広島にいたそうです。その年迫害があり、8月16日メルキオール熊谷豊前守元直が萩で殉教し、3日後の19日ダミアン伝道士が山口で殉教しました。

1606年広島にはセバスチャン・ヴィエイラ神父他2人の神父と修道士1人、他に数名の伝道士もいたと言われています。中国地方一帯の他に四国の方にも宣教していたようです。

1608年にはヨアキム九郎右衛門(町民の出?)が洗礼を受けています。そしてハンセン病のための施設が広島に作られ、九郎右衛門たちキリシタンが働いていたようです。

1613年に徳川幕府のキリシタン禁教令が出ました。

1614年、広島に潜伏して関西の方まで活動していたアントニオ石田神父は、1617年に逮捕され投獄されました。一説によると、牢番の下級武士だったマティアス庄原市左衛門が、獄中のアントニオ石田神父から、国の方針に逆らって牢にいる罪人と知りながら教えを受け、洗礼を受けました。

1619年に福島正則は改易、信州の川中島に流され、その後、浅野長晟(ながあきら)が紀州和歌山から国替えで広島に来ます。その時家臣のフランシスコ遠山甚太郎信政(当時19才)の一族も一緒に来ます。

1619年2月に、教皇パウロ五世から日本の信徒に出した励ましの手紙が届くと、その答えとして、1621年に出した手紙(奉答文)の中に、広島の5名の信徒の名前があります。真ん中には遠山甚太郎のサインがあり、その後に当時潜伏して広島で働いていた神父3人の名前があります。

1623年の江戸の大殉教を知った浅野長晟は、そっとしておくわけにはいかないと、1624年2月にフランシスコ遠山甚太郎信政・マティアス庄原市左衛門、3月にヨアキム九郎右衛門へ処刑の宣告をしました。

備考



 

   
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掲載日2013年3月15日
更新日2017年2月1日
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