連載②「今、殉教を生きるとは?」

カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 広島教区年間テーマ関係

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最終更新日:2017年2月1日

列福運動はなぜおこったか?

日本の司教団は、殉教者を顕彰するためだけに列福運動を始めたのではありません。日本の教会の素晴らしさを再発見し、今の日本の教会に活気を呼び込むためでした。

188人が、たんに偉い殉教者であったというより、彼らの生き方を通して現代日本に生きるキリスト者に、信仰をもって生きていくための姿を示し、ひいては日本社会に福音に生きる喜びをもたらすことができると信じたのです。

では、具体的にどのような信仰の姿を示したのでしょうか?

どのような基準で選ばれたか?

第一に、信徒による前向きで積極的な宣教司牧を実践する姿です。

第二バチカン公会議が打ち出した「神の民としての教会」という教会観に基づいて、現代は「信徒の時代」と言われます。188殉教者のうち183人は信徒であり、司祭が不在の教会を生き抜いた人々です。

司祭中心の教会から脱皮しようとしているのが現代です。多くの部門は信徒が担うことができますから、司祭と信徒はもっと協力し合い、現代社会に向かってどのように教会をアピールするのか、真剣に思いめぐらすことが求められます。そのためには、信徒の養成に真剣に取り組む時が来ています。

今回列福される殉教者は、教会共同体とはどうあるべきか、という問いに重要な方向を示してくれます。

米沢のルイス甘糟右衛門(あまかすうえもん)

その代表的な殉教者は、現在の山形県米沢のルイス甘糟右衛門(あまかすうえもん)です。

甘粕家は、代々上杉藩に仕え、右衛門は、司祭不在の教会において、教会の教えを堂々と伝え、信徒会長として信徒だけではなく民衆からも信頼を受けていました。幕府から米沢に追われた上杉藩士たちの貧しさは、上下の身分を越えて互いを思いやり、感謝し合い、心を一つにして生きる素朴な人々を生み出しました。

イエスの福音に出会う前に右衛門の心は耕されていました。1610年頃、江戸でソテロ神父から受洗します。米沢教会は巡回教会で、右衛門を中心として「組」の組織によって支えられていました。「聖母の組」「聖体の組」「コルドンの組」(フランシスコ会第三会)がありました。

信徒たちは定期的に集まり、霊的読書と祈りを土台に、孤児の世話、病人や貧困者の支援を行いました。組を世話する組親は求道者を教え、葬式や結婚も司式しました。惣親(そうおや)甘粕右衛門の説教は「殿談義」(とのだんぎ)として多くの民衆の心に届きました。

年に数回立ち寄る司祭はゆるしの秘跡とミサを行うだけでした。それでも教会は確実に成長しました。当時3千人以上の信者がいたと上杉藩の文書にあります。

目覚めた信徒のいる教会は自立し感化力があります。それは昔も今も変わりません。現代日本教会が求めている「信徒の教会」がすでに米沢にありました。苦楽をともにしてきたキリシタン家臣を上杉景勝は守ってきましたが、幕府の厳しい禁教政策により、1629年1月12日、53名が首をはねられ、雪を血で染めました。男性30人、女性23人、うち5才以下の幼児9人でした。

「ここで死ぬ者たちは信仰のためにいのちを捨てる、いさぎよい人たちである。皆のもの、土下座するようお願い申す。」と、奉行の声が刑場に響きました。信者たちは最期まで好意を持って受け容れられ、人々はその死を心底悲しみました。

亡きがらは、「信者でない人々によって、ていねいに取り扱われた」と、イエズス会士ポッロ神父は伝えています。米沢の信者は、世の人々の苦しみ悲しみを、自分の苦しみ、悲しみとして共に生きました。

次回に続く・・・

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掲載日2013年3月15日
更新日2017年2月1日
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編集者web管理者(竹内)
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