「牢屋の窄」 GAUDETE 2017年06月号(本紙第36号)

カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 部門 / 推進本部事務局

キーワード(索引語): 
最終更新日:2017年7月17日

GAUDETE_logo

ホームページ版本文

牢屋の窄

先日、教区の職員研修で五島に行きました。そこで印象に残った場所を紹介します。五島久賀(ひさか)島にある牢屋の窄です。この島の迫害は、幕末から明治の初め津和野での迫害と同じ時期でした。浦上四番崩れにたいして五島崩れとよばれています。

信徒発見の年1865年の暮れ頃には久賀からも長崎にいる神父に会いに行って、島に帰って、神父の教えに従って、神社の護符などを焼き、キリシタンの信仰を宣言し、役所に届けたそうです。これが五島崩れの火種になったと考えられています。

1868年(明治元年)陰暦10月20日わずか6坪の家に200余りの人が押し込められました。中は二つに仕切られ男女別々にされていましたが、「狭苦しさは言語に絶し、他の人の体にせりあげられて、足が地に着かないで宙にあげられたまま、眠るものもあったと言われている。食べ物は朝と晩に小さな薩摩芋一切れであった。」「トイレの設備もなく、そのため不潔、悪臭、蛆虫が湧き、生きながらその蛆に下腹をかまれ13歳のタキは死亡した」。牢屋内で死亡した人が39人、牢屋を出て間もなく死亡した人が3人、計42人が命を捧げた。明治2年6月に指導者たちを除いて皆解放されたが、指導者が解放されるのはそれから2年後でした。

この牢屋の跡に牢屋の窄殉教記念聖堂が立っています。このような迫害に耐えながら信仰を、命をかけて証した人々を思い、私たちも日々信仰を明かしすることができるように祈ります。

教会公文書を読む

今年度広島教区宣教司牧テーマ「2017-2019年度「教会へのチャレンジ」」のヒント

主な教会暦(主日を除く)

紙面発行版

自由にダウンロードして利用ください。

関連記事

備考



 

文書(ページ)情報

掲載日2017年7月17日
更新日2017年7月17日
閲覧回数1,132 Views
推進・区分推進本部事務局
タグ(索引語)
編集者web管理者(竹内)
次の記事
前の記事