2月1日 加藤信也 神父(祇園カトリック教会,2015年2月4日確認)
カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 推進本部取組 / 第1の柱:平和
キーワード(索引語): ミサ説教,祇園教会,祈り・福音の教え・信仰教育
最終更新日:2015年2月4日
祇園カトリック教会ホームページ(ブログ)「2月1日 加藤信也 神父」が更新されました。
説教本文
私たちは今日、年間第4主日のミサのためにここに集まっています。私たちと同じように、イエスも安息日には会堂に行き、集まった人たちに話をされました。残念ながらイエスの話の具体的な内容について、福音書は何も記していません。しかし「人々はその教えに非常に驚いた」とあります。
まず人々はイエスの言葉に驚きました。続いて、汚れた霊を追い出したという事実に驚きました。今日の福音に特徴的なことの一つは「驚き」だと言えます。
福音書には色々なテーマが含まれていると言われます。中でも最も重要なテーマは、「エスとは誰か」ではないでしょうか。聖書は、ある意味で。「イエスとは誰か」というミステリーの「謎解き」と言ってもいいかも知れません。イエスという「謎」を解く。それこそが私たちの信仰生活そのものだとも言えます。その答えは、すぐに出るものではない。私たちは一生かけて、その答えを見つけようとします。
イエスの母マリアも、一生かけてこの問いの答えを見いだそうとする人であったかも知れません。イエスを生みながら、母親でありながら、我が子が一体何者であるのかがわからない。しかし、マリアは、分からないからといって諦めはしませんでした。聖書はそれを美しい言葉で表現しています。
「心に納めて、思いめぐらしていた」(ルカ2:19)
今日の福音朗読は、マルコ第1章。つまり、「謎解き」は始まったばかです。イエスが何者なのか、誰もまだ分からない。つまり「宝は」まだ隠されたままです。ところがこの冒頭の箇所で、実は謎解きは終わっているのです。
「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」
汚れた霊にはイエスが誰であるかがわかっている。しかし人々には分からない。イエスと汚れた霊の言葉のキャッチボールは人々の頭の上を通り越していきます。
福音書の別蛇の箇所には、こんな言葉があります。
「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10:16)
ここで言われる賢さとは、「神を見いだす賢さ」でしょうか。悪霊の賢さは「ずる賢さ」かも知れません。いずれにせよ、イエスは「蛇のように賢くあれ」と呼びかけられます。
イエスの時代、古代社会では、病気や災害の原因を科学的に究明することはできませんでした。分からない厄災は悪霊のしわざと考えられていたことでしょう。だとすれば、悪霊を追い出せば、病気が治ると考えるのも自然ですは、悪霊を追い出せるなら、すなわちそれは神のわざであると考えられるのもうなづけます。イエスが悪霊を追い出せるのは、イエスのうちに神の力が働いているからだ。つまるところイエスは神である、という考えに至るのも自然の流れです
一方、先にも述べたように、古代の人々は自分の力が及ばない否定的な力の中に悪霊を見いだしました。現代に生きる私たちは、それを非科学的と考えがちです。しかし現代においても分からないことは沢山あります。古代の人々はそうした「分からないこと」を「悪霊」という名の引き出しの中に入れておいたのかも知れません。
現代に生きる私たちも、さまざまな汚れた霊に取り囲まれています。たとえば皆さん、待降節、四旬節に「赦しの秘跡」を受けられます。その時、私たちは気づかされます。「また(以前と同じ)罪を告白している」。私たちは同じ罪を何度も繰り返します。まるで特定の悪霊にとりつかれているように、その罪から逃れられない自分がいます。
「黙れ、この人から出ていけ」
私たちもまた、今日の福音に登場する男のように、イエスに汚れた霊を追い出していただかねばならない存在なのでしょう。
しかし今日の福音の中にも希望があります。たとえ汚れた霊にとりつかれているにせよ、私たち自身は悪霊ではありません。汚れた霊が出ていってしまえば、人は心も体も健康に戻れます。私たち自身は悪霊ではないのです。
こんな言葉があります。
「もし私が存在していなかったならば、神も存在しないであろう。神が神である原因は私たちたのだ」。
【※出典「もし私自身が存在しなければ、神もまた存在しない」(エックハルト?)】
(これは傲慢な考えではなく)私たち一人一人は、あくまで神に愛され、大切にされる存在である、という意味です。
悪霊と同列に置かれないばかりか、私たちのために神は存在すると言ってもいいほど、神さまは私たちを愛しておられるのです。
この説教本文は
平和の使徒推進本部が祇園カトリック教会主任司祭から転載の許諾をもらっています。
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掲載日 | 2015年2月4日 |
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更新日 | 2015年2月4日 |
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