11月23日 加藤 信也 神父(祇園カトリック教会,2014年11月25日確認)

カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 推進本部取組 / 第1の柱:平和

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最終更新日:2014年11月25日

祇園カトリック教会ホームページ(ブログ)「11月23日 加藤 信也 神父」が更新されました。

説教本文

今日は教会歴最後の主日、「王であるキリスト」の祭日です。我々は1年の終わりの日に世の終わり、すなわちイエスが「最期の審判」について語られる有名な箇所を福音朗読として聞きました。

審判、別な言い方をすれば、我々が被告として裁判の法廷に出廷する。そこで、天地創造の時から用意されてる神の国を受け継ぐ資格があるかどうか、裁かれる。では裁きの基準は何か。

主日のミサに欠かさずあずかったか。毎日、祈ったか。告解をしたか。(今日の福音朗読の箇所では)そのようなことは何も問われていません。問われているのは、食べさせる、飲ませる、宿を貸す、着せる、見舞う、訪ねる、といった具体的行為です。

当時のユダヤ社会では律法が何より重んじられていました。では沢山の律法の中で、どの掟が最も大切かと問われた時、イエスはこう答えました。

ます、神を愛しなさい。

そして隣人を愛しなさい。

神を愛するという第一の掟は、別の言葉で言えば、信仰といってもいいかも知れません。私たちも揺るぎない信仰こそが、神に喜ばれると考えています。しかし今日の福音朗読には、揺るぎない信仰など現れません。語られるのは、具体的な愛の行為です。

さらに興味深いことがあります。最期の審判で呼び集められるのは、キリスト者だけではありません。「すべての国の民がその前に集められ」と記されています。キリストへの信仰を持っていたかどうかが問われるではなく、キリスト者でない人にも、愛のわざを行ったかどうかが問われるのです。

もしもこの「愛のわざを行ったかどうか」という問いに「はい」と答えられるなら、天地創造の時から用意されている国を受け継ぐことができる。

もちろん信仰は消して忘れ去られていいものではありません。しかし隣人、弱者への思いやりを欠いた信仰は無意味であり、自己満足の信仰で神を喜ばせることはできない。今日の福音朗読、はそのことを指摘しているかのようです。

もう一つ、興味深いことがあります。

今日の福音朗読の中に出てくる愛のわざを行った人たちは、自分が愛のわざを行ったことに気づいていない、あるいは忘れているかのように見受けられます。「いつわたしたちは、○○したでしょうか」と彼らは主にたずねます。

飢えている人に与えられた食べ物、渇く人に与えられた水は、食べられ、飲まれてたちまちなくなります。愛のわざの賜物は、消えていくことによってのみ、人々の飢え乾きをいやせるのです。これと同じように私たちも愛のわざの行為や記憶も、消えていくことが望ましいのではないか。むしろそのような忘れ去られる行為こそが、神の記憶の中にしっかりと刻まれるのかも知れません。

今日の福音は、前半と後半が光と陰のような対称を為しています。前半の、神に受け入れられる人々と、後半の永遠の火に入る人たちとの対比は、一見、「飴と鞭(むち)」のようにも思われます。

そこで今日は、一つの祈りで、私の話を終えたいと思います。

【十字架上のキリストへの祈り】

主よ 私があなたを愛するのは
あなたが天国を約束されたからではありません。
あなたにそむかないのは
地獄が恐ろしいからではありません。

主よ 私をひきつけるのは
あなたご自身です。
私の心を揺り動かすのは
十字架につけられ、
侮辱をお受けになったあなたのお姿です。
あなたの傷ついたお体です。
あなたの受けられた恥ずかしめと死です。
そうです 主よ。
あなたの愛が私を揺り動かすものです。
ですから たとえ天国がなくても
主よ 私はあなたを愛します。
たとえ地獄がなくても
私はあなたを畏れます。

あなたが何もくださらなくても
私はあなたを愛します。
望みが何もかなわなくても
私の愛は変わることはありません。

(聖フランシスコ・ザビエル)

この説教本文は

平和の使徒推進本部が祇園カトリック教会主任司祭から転載の許諾をもらっています。

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