1月26日 S.オチョア神父(祇園カトリック教会,2014年1月27日確認)

カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 推進本部取組 / 第1の柱:平和

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最終更新日:2014年1月29日

祇園カトリック教会ホームページ(ブログ)「1月26日 S.オチョア神父」が更新されました。

説教本文

今日の福音朗読は、主の公現、主の洗礼、そして40日間にわたる断食・祈りの後、悪魔による誘惑を退けられた後、宣教を始められ、ご自分とともに働く弟子を召し出す箇所です。

イエスさまは人を呼ばれる(召命)時、色々な態度をとられます。ペトロとアンデレには、漁師という仕事に就いているのに、「私について来なさい」と言われます。召し出されたペトロたちは、仕事を捨ててイエスさまについていきます。神さまの呼びかけには力強さがあるかも知れない。それでも私たちから見ると、仕事を捨てて従うというのは、大きな冒険に思えます。また、ヨハネ兄弟は父と一緒に働いていたにもかかわらず、網の手入れを止め、父のもとを離れてイエスさまに従います。これはとても難しいことに思えます。

イエスさまはこの後にも、さまざまな形で「私に従いなさい」と呼びかけられます。その呼びかけの中には、決して寛大とは言えないものもあります。

「永遠の命を得るにはどんなことをすればよいのでしょうか」とたずねる若者に、イエスさまは「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、隣人を自分のように愛しなさい」と答えます。青年は「それらはみな守ってきました」と言います。するとイエスは「持ち物を全部売って、貧しいものにほどこしなさい。それから、私に従いなさい」と言われました。またある人が、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と願い出ると、「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。

私たちは信仰の恵みによって洗礼を受け、100%の心をイエスさまに捧げてついていく、と誓いました。私たち一人ひとりも、イエスさまから召し出しを受けているのです。

もう一つ、今日の福音朗読で心にとめておきたいことがあります。それはイエスさまの宣教がガリラヤで始まったということです。ユダヤ人にとってエルサレムは聖なる都でした。しかし福音はガリラヤから告げられるのです。 ガリラヤはユダヤの北の果て、異邦人の地に近い場所です。イエスさまがエルサレムではなく辺境の地から福音を宣べ伝え始める、語ることによって、福音書はイエスさまの謙遜を示しています。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」。ここに語られる「天の国」は「現在形」です。学校で英語を習う子どもたちは、現在形、過去形、未来形などなど、時制に悩むかも知れません。しかし「天の国」は今、この時、実現つつあります。天の国はすぐに来る、という希望はすでに私たちの心の中にあります。私たちが追い求めれば、それは実現する。天の国は、私たちの生き方において示されます。暴力や争いを退け、すべての人が兄弟姉妹として、父である神さまのもとで一つの家族となることによって、天の国は実現します。私たちは「主の祈り」の中で、「御国が来ますように」と唱えます。御国、神さまの国とは、別の言い方をすればイエスさま御自身そのものです。

聖書の締めくくる最後の言葉は、「主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」(ヨハネの黙示録)です。「主よ、来てください」、すなわち「マラナタ」。イエスさまが来られるとは、どこか別のところからやって来られることではなく、信仰の恵みによって、私たちの心におられるイエスさまが公のものとなり、世界に示されることです。私たちは今日のごミサを通して、イエスさまの呼びかけに忠実にこたえ、すべてをおいてイエスさまに従うことができるよう、恵みを求め祈りましょう。

この説教本文は

平和の使徒推進本部が祇園カトリック教会主任司祭から転載の許諾をもらっています。

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