2009年教区年間テーマを深めるために

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最終更新日:2013年3月15日

カトリック広島教区2009年年間テーマ「平和の使徒となろう」~和解をもたらす「新しい人」に~

広島教区の皆さま

+主の平和

今年の年間テーマには、昨年の188殉教者、とりわけ広島教区の5人の殉教者の列福の恵みを、これからの広島教区の宣教司牧活動にどのように具現していくかという課題と、「パウロ年」が意識されています。「新しい人」と「和解」がキーワードです。

テーマを深めていくために、みことば(聖書)と二人の著作からの引用を取り上げました。個人、共同体の祈り、また分かち合いの糧としていただければ幸いです。

平和の使徒推進本部

Ⅰ.聖書より

(1)福音書から

  • 柔和な人々は、幸いである(マタイ5:5)
  • だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。(マタイ5:23~24)
  • しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:27:28)
  • 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。(マタイ7:1)
  • あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34~35)

(2)パウロの手紙から

  • 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。(ロマ12:10~18)
  • だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。(2コリ5:17~20)
  • 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。(ロマ5:10~11)
  • 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(エフェ2:14~16)
  • あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。(コロ3:12~15)

(3)パウロの手紙にみる「新しい人」

  • 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。(コロ3:9~11)
  • わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(ロマ6:4)
  • しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、”霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。(ロマ7:6)
  • 心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。(エフェ4:23~24)
  • だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。(2コリ4:16)

Ⅱ.その他の文献より

「『新しい人』の方(ほう)へ」 大江健三郎著 朝日文庫 2007年10月31日第1刷発行

「新しい人」になるほかない 3 (p.198~201)

私が「新しい人」という言葉に出会ったのは、「新約聖書」のパウロの手紙のなかででした。私はギリシヤ語ができませんから、そのもともとの言葉が、どういう感じのものかはいえません。英語とフランス語の聖書では、それぞれnew man, homme nouveau と訳してありますから、日本語の聖書の「新しい人」という言葉から、私たちが普通に受けとる感じでいいのじゃないかと思います。

それも、私がこの言葉に出会った「エフェソの信徒への手紙」では、次のような意味で使われていました。キリストは平和をあらわす。それは対立してきた二つのものを、十字架にかけられた御自身の肉体をつうじて、ひとつの「新しい人」に作りあげられたからだ。そしてキリストは敵意を滅ぼし、和解を達成された・・・・・・

私は、なにより難しい対立のなかにある二つの間に、本当の和解をもたらす人として、「新しい人(たち)」となることをめざして生き続けて行く人、さらに自分の子供やその次の世代にまで、「新しい人(たち)」のイメージを手渡し続けて、その実現の望みを失わない人のことを、私は思い描いています。

「エフェソの信徒への手紙」は、イエス・キリストの教えの信徒と、そうでない人たちとが一緒にいる土地で――ユダヤ民族と、別の民族が対立して、おたがいへの敵意を燃やしていた土地――、どのようにイエス・キリストの教えをひろげてゆくか、それをパウロが説いている手紙です。パウロはそのような手紙をいくつも書き、かれの民族とはちがう人たち、つまり異邦人たちにキリストの教えをひろめようと、様ざまな土地に旅しました。最後には、かれの意図と行動とに反対する人々にとらえられ、処刑されたとされる人です。

キリスト教の信仰を持っている人たちや、そうでなくても聖書を読み続けていられる人たちは、パウロがイエス・キリストの教えを弾圧する立場にいたユダヤ教の学者であり、そこから一転して深く忍耐強いキリスト教徒になった人だということを知っていられます。

私はキリスト教徒ではなく、聖書についての知識も浅いのです。キリストが十字架にかかって死ぬことで、対立する二つを自分の肉体をつうじて「新しい人」に作りあげ、本当の和解をもたらした、ということについて、皆さんによく納得してもらえるように話すことはできません。

私はただ、十字架の上で死なれた、そして「新しい人」となられたイエス・キリストがよみがえられたということを、つまり再び生きられて、弟子たちに教えをひろめるよう励まされたということを、人間の歴史でなにより大切に思っています。

それも私の大切だと思う中心にあるのは、「新しい人」とし生きられた(・・・・・)、ということなのです。いつまでも生き続ける「新しい人」というイメージが根本にあるのです。

「主のよき力に守られて ボンヘッファー1日1章」村椿嘉信訳 新教出版社 2001年11月10日第1版第1刷発行

敵のただ中で平和の使徒として

イエス・キリストは自分に善を図ってくれる者、自分と平和な関係を持とうとする者のために死んだのではなく、まさに罪人のため、敵のため、自分に善を図ってくれない者、自分を憎む者、殺害しようとする者のために、死におもむいたのである。われわれの心は友人らに取り囲まれ、いつも正しき者や善を図ってくれる者の中にいることしか望まない。しかし、イエス・キリストはみずから敵のただ中にいたのだ。まさにそこにいることを彼は望んだのである。そしてわれわれもまたそこにいるべきなのである。ところでこのことが、まさに、われわれを他のあらゆる道徳的な教えや宗教から区別するものなのである。

平和のために神の言葉を語り伝えること、引き裂かれ分裂した人類のただ中で神と人間が平和を得るために神の言葉を語り伝えることこそがあなたがたのなすべきことである。われわれが敵であった時に神はわれわれと和解した。神はまた十字架において、われわれのあらゆる敵と平和をつくりだした。この平和を、すべての人々の前で、証ししていこうではないか。

助けを求めている敵

どうしたらわれわれは悪に勝てるのであろうか。われわれが悪を限りなく許すことによってである。それならば、どうしたらわれわれは悪を限りなく許すことができるのであろうか。それはわれわれが、その人を真理のうちにある者とみなすことによって、その人のためにキリストが死なれた者とみなすことによって、キリストの愛している者とみなすことによってである。どのようにしたら、キリストの共同体はその敵に勝つのであろうか。それは敵に注がれているキリストの愛に勝利を得させることによってである。

備考

  • 2013年3月15日 旧ホームページより転載


 

   
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掲載日2013年3月15日
更新日2013年3月15日
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