「キリストの光、光のキリスト」殉教、証しの使命
カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 広島教区年間テーマ関係
キーワード(索引語): カトリック新聞,パウロ大塚喜直司教,福者ペトロ岐部司祭と187殉教者
最終更新日:2013年3月15日
年間第2主日 1月20日 (ヨハネ1・29-34)
年間の主日が始まる今日、福音は洗礼者ヨハネの証しの場面です。ヨハネの証言は「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」ということばで始まります。イエスがご自分の苦しみと犠牲によって、私たちを罪から解放して下さる方であると、天の父からの啓示によってヨハネは知り、それを全イスラエルに告げるのです。神の子が私たちの証言を必要とされるのは、もちろん神ご自身のための証明ではなく、私たちの救いのためです。
いよいよ今年はペトロ岐部と百八十七殉教者の列福式が行なわれますが、私たちはあらためて殉教者の証しの意味を考えます。殉教者が証しするのは、自分の信仰の強さではありません。彼らはいのちをかけて、神の愛によって救われたことを明らかにするのです。
現代の日本ではどの宗教に属していても迫害されることはありませんが、それだけにキリスト者が信仰をいつもいきいきと生きることが難しくなっています。私たちは自分が洗礼を受けた後、どうしているでしょうか。ふだんあまりにも自分のことだけを考え、どれほど周りの人々の救いのことを考えているでしょうか。それどころか、自分の信仰と救いさえも失いかけてないでしょうか。まして自分の信仰を証しする気持ちがあるでしょうか。洗礼を受けているということ、それは神の愛を知ったということであり、それは同時にキリスト者として、それを知らない人々に証しする使命が与えられているということです。
あえて殉教を証しの使命と解するならば、現代の殉教は死なない殉教と言えます。この現代の殉教には三つのポイントがあります。第一はイエス・キリストを宣言することです。信仰者の証しの生き方は何でもよいのではなく、キリストによる救いを信じ、永遠のいのちに希望をかける愛の生き方です。第二は、信仰者は自分の死をかけるほどの確固たる信念をもって生きることです。生ぬるい信仰を常に回心します。そして第三は隠れて生きないことです。信仰というのは黙って自分だけ信じていればよいというものではなく、神がくださる信仰の恵みから証しの使命を取り去ることはできません。神の小羊は、現代の私たち一人一人の証しを求めておられるのです。
(大塚喜直=京都教区司教)
出典(転載)元
- カトリック新聞 2008年1月20日付(3939号)4面
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備考
- 2013年3月15日 旧ホームページより転載
文書(ページ)情報
掲載日 | 2013年3月15日 |
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更新日 | 2013年3月15日 |
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