9月22日 加藤信也 神父(祇園カトリック教会,2014年9月25日確認)

カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 推進本部取組 / 第1の柱:平和

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最終更新日:2014年9月25日

祇園カトリック教会ホームページ(ブログ)「9月22日 加藤信也 神父」が更新されました。

説教本文(抜粋)

今日の福音朗読は、「ぶどう園の労働者のたとえ」と言われる有名な箇所です。夕方5時頃から働いた人たちが、1デナリオンの報酬を受け取った。早朝から働いていた人朝から働いた人たちは、もっと沢山の報酬を貰えるだろうとと期待した。ところが、受けたったのは同じ1デナリオンだった。そこで彼らは不平を言います。その気持ちは、わからないでもありません。私たちだって同じ立場だったら、不満を感じるかも知れません。

1デナリオンは、当時、一家か一日食べていけるだけの金額だったそうです。贅沢はできないが、家族が飢えずに一日を過ごせるだけの報酬。そう考えると、神様はどんな人にも今日の命を与えてくださる。それが私たちの神さのなのだ、と感じられます。

ではイエスさまは、何のためにこのたとえ話をされたのでしょう。それは天の国を説明するためです。イエスたまは他にも「天の国は次のようなものである」と、色々なたとえ話をされました。天の国、神の国を理解してほしい。みんながそこに入ってほしい。そんな思いがあるからこそ、イエスさまは色々なたとえ話をされました。そして、「もしもあたたたちのまわりで、このような(たとえ話のような)ことが起こるとすれば、すでに天の国は始まっている、実現しているのだ」と教えておられるのです。

今日、私たちは「ほほえみの集い(敬老の集い)」を祝います。この教会に来て間もないころ、「ほほえみの集い」と聞いて、「いったい何の集いなのか」と首をひねっとことがありましたが、今ではなかなかいいネーミングだな、と思います。もし、「ほほえみの集い」がほほえみにあふれた集まりとなるならば、そこに天の国が実現する、と言ってもいいかも知れません。また、歳を重ねるにつれ、私たちの心が頑(かたくな)になっていくのではなく、優しさとほほえみに満ちたものになねならば、そこに天の国が実現する、その人はすでに天の国に受け入れられているということでしょう。

ほほえみの集いにあたり、何を話そうか、あれこれ考えました。そしてやはり、ここに行き着きました。ご存知の方も多いでしょう。イエズス会のボイヴェルス神父が残した「最上のわざ」です。

最上のわざ

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり
働きたいけれども休み
しゃべりたいけれども黙り
失望しそうなときに希望し
従順に 平静に おのれの十字架をになう
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず
人のために働くよりも 謙虚に人の世話になり
弱って もはや人のために役だたずとも 親切で柔和であること
老いの重荷は神の賜物
古びた心に これで最後のみがきをかける
まことのふるさとへ行くために
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは真にえらい仕事
こうして何もできなくなれば それを謙虚に承諾するのだ
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる
それは祈りだ
手は何もできない けれども最後まで合掌できる
愛するすべての人のうえに 神の恵みを求めるために
すべてをなし終えたら 臨終の床に神の声をきくだろう
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。

この説教本文は

平和の使徒推進本部が祇園カトリック教会主任司祭から転載の許諾をもらっています。

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