8月10日 加藤 信也 神父(祇園カトリック教会,2014年8月12日確認)

カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 推進本部取組 / 第1の柱:平和

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最終更新日:2014年8月12日

祇園カトリック教会ホームページ(ブログ)「8月10日 加藤 信也 神父」が更新されました。

説教本文

(8月10日、祗園教会ではミサ中に「合同慰霊祭」が行われました)

「どんなに逃げても逃げても逃げることのできない死。といって、向かっていっても決して勝つことのできない死。人はみな、死刑囚なのだ」。

この手記を書いた若者は死の悩みを通して、新しい生き方を選ご、やがてカトリックの洗礼を受け、司祭となった。今年3月8日に亡くなられた井上洋二神父である。

死は私たちにとって、できれば避けたいものだ。イエスでさえ「この盃をとりのけてください」と父である神に祈った。しかし死は、ただ否定的な側面だけを持っているのではない。死は、生きるための大きなエネルギーを与えてくれる不思議な側面も併せ持っている。

今、この聖堂に200人ほどの人がいる。200の「人としての命」がある。しかしこの聖にあるのは「人としての命」だけではない。祭壇の脇にある植栽も命を持っている。では植物や動物の命と我々人間の命は同じなのか、違うのか。生きとし生きるものはすべて、神からひとつの命いただいている。これが「自然的命」だ。ところが人間だけは、自然的命を十分生きている、身体的には健康そのもので生命力がみなぎっているにも関わらず、自らの命を終わらせてしまうこともある。

我々は他者の存在なしには生きていけない。誰かに大切にされる。信頼される。それだけでなく、自分も人を信頼し、大切に思う。そんな相互関係がなければ失われていく命、これが「人格的命」だ。「自然的命」は、とりあえず呼吸していれば生きていけるかも知れない。しかし「人格的命」は、愛を呼吸しなければ生きていけない、とも言われる。

では、愛を呼吸させないものは何か。それは自己中心性、エゴ、キリスト教では「罪」と呼ばれるこの自己中心性が「人格的命」を終わらせてしまうかもしれない。

私たちにとって何が一番大切か。自分の命、これは手放すことができない。自分の人生、これも大切。しかし「私の○○」と我々は言うが、それは本当に私のものなのか。

結論からいえば、すべては神から与えられたもの。正確にいえば、神から貸し与えられたもの。菓子与えられたものならば、返すのが道理。すべての人に一つの命が貸しあたら得られている。そのたった一つの命は神に返さなければなにない。誰にも例外は認められない。これが神の前の平等だと言える。イエスは聖書のある箇所で、「ただで受けたのだから、ただて与えなさい」と言っておられる。私たちはすべてをただで受けた。我々が支払ったものはない。命もただ、神から与えられた。

35年前、東京でマザーテレサの講演を聞く機会があった。講演は大学で行われ、最後に学生の質問にマザーテレサが答えた。ある男子学生が「(カルカッタではなく)日本にいる我々は、一体何をすればいいのか」と質問した。マザーテレサの答えは意外なものだった。「今日、あなたが家に帰ったら、家族一人ひとりの振り返ってみてほしい。もしも誰か寂しさを感じている人、孤独感じている人がるなら、その人とともにいてあげて欲しい。これが、あなたが一番しなければならない仕事です」。

「人格的命」を見据えた言葉だと思う。今年度、祇園教会、広島教区は家庭をテーマとしている。マザーテレサの言葉は、私たちに大切な、そして具体的な指針を与えてくれるものと言えよう。

この説教本文は

平和の使徒推進本部が祇園カトリック教会主任司祭から転載の許諾をもらっています。

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掲載日2014年8月12日
更新日2014年8月12日
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