6月8日 加藤信也 神父(祇園カトリック教会,2014年6月10日確認)

カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 推進本部取組 / 第1の柱:平和

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最終更新日:2014年6月10日

祇園カトリック教会ホームページ(ブログ)「6月8日 加藤信也 神父」が更新されました。

説教本文

今日は聖霊降臨の祝日。聖霊に捧げられた教会である祗園教会にとっては、とても意義深いお祝いの日です。

私たちはいつも、「父と子聖霊のみ名によって」という言葉でミサを始めます。祈りのときも同じく、父と子と聖霊のみ名によってお祈りを始めます。三位一体の神。その聖霊が下ったことを記念する、それが聖霊降臨の祝日です。では聖霊が下るとどうなるのか。それは今日の第一朗読、「使徒たちの宣教」、そして福音朗読の箇所に書かれています。

イエスはいつも弟子たちと共に行動されました。中でも後に使徒と呼ばれる12 人の弟子たちは、師であるイエスと文字通り寝食を共にし、いつもイエスさまから直接教えを受けました。そして彼らは、さまざまな出来事を目の当たりにしました。イエスが病人を癒した時、障がいを取り除かれた時、亡くなった人をもよみがえらた時、使徒たちはその目で奇跡を見ました。空腹の群衆を満腹にされたイエス、水の上を歩き、嵐でさえしずめる師の偉大な力を前に、きっと使徒たちは心の中でこう考えたことでしょう。「イエスが望まれることは、何でも実現する。イエスはどんなことでもお出来になるに違いない」と。仮に絶望的な状況に陥ったとしても、イエスなら、その状況を逆転させ、すべてを可能にする。使徒たちは心からそう思ったことでしょう。

しかしイエスは捕らえられました。何の抵抗もせず、死刑の判決を受け、十字架につけられました。ある者は「神の子ならそこから降りてこい。自分自身を救ってみろ」と十字架状のイエスに言いました。恐らく弟子たちも同じ思いを抱いたのではないでしょうか。イエスならきっと、絶望的な状況を覆せるはずだ、と弟子たちは望みをかけていたはずです。しかしそれの願いは叶いませんでした。

イエスの死は、「(自分たちが信じてきた)イエスとは一体誰であったのか」という問いを弟子たちに突きつけました。弟子たちの心は深く傷つきました。その傷は、誰かにつけられたものではなく、イエスを裏切ったことによって自分自身がつけたものです。

イエスは十字架につけられて死に、すべては終わったかと思われました。しかしこの後、実に不思議なことが起きました。師を裏切り、恐怖におののき身を潜めていたあの臆病者の使徒たちがイエスの死と復活を宣べ伝え、彼らのほどんどか殉教するまでに心を変えていった。実に不思議です。皆さんなら、これを説明されますか。実に不思議です。しかしこのことは誰も否定できない歴史的事実です。イエスは教会を作られました。その教会は今や全世界に広がり、カトリックだけでも11億人、プロテスタントなどを加えるとものすごい数の人たちがイエスの教えを信じています。これこそ奇跡と呼ぶにさわしいことだと思われます。

実はこの奇跡は、種も仕掛けもある奇跡でした。その種・仕掛け、それが聖霊降臨です。聖霊が使徒たちに下ったことからすべては始まったと言えるでしょう。

6月22日には、前田司教様がこの教会を公式訪問され、堅信式が行われます。堅信とは何か。一言で言うなら堅信とは聖霊降臨です。堅信を受ける人には聖霊が与えられます。私たちは6月22日、聖霊降臨を体験するわけです。

水に沈められて古い私が死に、新しい私が誕生するということから、 洗礼はよく「誕生」に喩えられます。親は生まれた子には名前をつけます。信者としての誕生にあたってつけられるのが洗礼名です。子どもが生まれたら、役所に届け出て戸籍を作ります。私たちも洗礼を受けると教会の戸籍に載ります。赤ちゃんは成長し、やがて成人式を迎えます。堅信は、いわば教会の成人式です。しかし堅信を受けたからといって、自動的に大人の信仰を持てるわけではありません。むしろ堅信によって信仰が問われるのです。

堅信や洗礼では、代父・代母が立てられます。「親代わり」は、大人にしか務められません。ですから代父・代母となるのは堅信を受けている人ということになっています。今日、ここにおられる皆さんのほとんどは、堅信をすでに検診を受けておられることでしょう。堅信を受けた人の特徴を一言で言うなら、「与えられる者ではなく与える者」であることです。親は子に与える。これが大人と子どもの違いです。あるいは「守られる者ではなく守る者」であるということ。子は親がいなければ生きていけません。言い換えれば、親になること、大人になるということは、子をきちんと守ること、責任・義務を果たすということです。

堅信式は私たちにとっても、自分の信仰を振り返るいい機会と言えます。果たして自分は、与えられる人から与える人に、守られる人から守る人へと成長できているだろか。信者として、きちんと責任・義務を果たす大人の(一人前の)信者になれているだろうか。私たち一人ひとり大人の信仰者として成長していけるよう、聖霊の恵み願い、ミサを続けましょう。

この説教本文は

平和の使徒推進本部が祇園カトリック教会主任司祭から転載の許諾をもらっています。

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