5月4日 加藤信也神父(祇園カトリック教会,2014年5月7日確認)

カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 推進本部取組 / 第1の柱:平和

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最終更新日:2014年5月7日

祇園カトリック教会ホームページ(ブログ)「5月4日 加藤信也神父」が更新されました。

説教本文

イエスが亡くなられてから3日目の朝、週の初め、婦人たちはイエスの遺体を納めた墓に行きます。しかしそこに遺体はなかった。ここからすべてが始まっていきます。

その日、二人の弟子がエルサレムからエマオに向かいます。エマオがどこにあったのか、その場所は分かっていませんが、60スタディオン、約11キロ、歩いて3~4時間ほど距離ということですから、恐らく2人の弟子は昼前後にエルサレムを経ったのでしょう。すると見知らぬ男が近づいてきて、彼らに声をかけます。「二人は暗い顔をして立ち止まった」と福音書には記されています。それはただ表情が暗いというようなことではなかったはずです。彼らが望みをかけていたイエスが殺されてしまった。もう希望がない。その絶望感が心の目をふさいでいたので、何も見えない。彼らは暗闇の中にいます。

ところが、その見知ら男が聖書について話をしてくれる。そして「一緒にお泊まりください」と無理矢理引き止め、一緒に夕食の席に着いた時、男はパンを割き増す。その瞬間、二人の心を覆っていた幕が取り去られ、心の目が開かれます。二人は希望にあふれ、イエスが現れたことを仲間に知らせるため、ずくにエルサレムに戻ります。エマオに行く時、失意、絶望の道であったものが、エルサレムに戻る時には喜び、希望にあふれた道となったのです。

婦人たちが朝早く墓に行ったのは、いわば墓参りでした。たとえば我々が長束の墓地に行く。そこには我々にとって大切な人の遺骨が納められている。その墓の前で、過ぎ去った日のこと、亡くなった人と共に過ごした喜びの日々、あるいは悲しみの日々を思い出す。お墓は、そのように過去を振り返るには一番ふさわしい場所かも知れません。

聖書の復活の場面は、実に面白い書き方がされています。たとえばヨハネによる福音書では、マグダラのマリアは墓に行ったけれども、イエスの遺体が無くなっていて、彼女は墓の外で泣きます。その時、イエスは墓の中ではなく、マリアの後ろに現れるのです。墓の中とは、死者の世界、過去の世界であり、イエスは我々の側、現実の世界、「今この時」に復活されます。

今日の福音朗読箇所でもそれは同じです。2人の弟子たちが道々語り合っていたのは、思い出、過去のイエスについてです。しかしイエスがパンを裂いた瞬間、彼らはその方がイエスであると気づく。これは実に象徴的な場面です。イエスに会うことができる場所、それは墓ではなく、我々が生活するこの世界、今この時であり、イエスの復活はパンを割くというその行為の内にあるのです。イエスを自分の目で見て、触れることができなくても、パンを割くこと、その行為に参加する場に居合わせることによって、イエスと出会う。弟子たちが集まって、共にパンを割くことの内に、復活のイエスがおられる。―これが今日の福音の言わんとすることだと思います。

もしイエスの復活ということに完全な確信が持てないなら(もしかしたら大多数の人がそうかも知れません)、そんな時こそ、自分自身が行ってきた「分かち合う」という行為を振り返ってみてはどうでしょうか。分かち合う。これは象徴的な行為です。分かち合いには痛みが伴います。有り余ったものを、他人に与えるのであれば痛みはないかも知れませんが、これは「分かち合い」というよも「払い下げる」と言った方がよいでしょう。本当の分かち合いには、「分け与えたものは、もう自分の手元にはない」という痛みが伴います。その痛みを引き受けるところから、主の復活への確信が生まれます。

今日も私たちは分かち合いの食事の準備をしています。共にイエスの食卓に参加して、分かち合う食事を体現しましょう。

この説教本文は

平和の使徒推進本部が祇園カトリック教会主任司祭から転載の許諾をもらっています。

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