4月13日 加藤信也 神父(祇園カトリック教会,2014年4月15日確認)

カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 推進本部取組 / 第1の柱:平和

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最終更新日:2014年4月15日

祇園カトリック教会ホームページ(ブログ)「4月13日 加藤信也 神父」が更新されました。

説教本文

今日、受難の主日から聖週間が始まります。聖週間はカトリック典礼暦の頂点とも言うべき時です。今日のミサでは(通常のミサと異なり)2つの福音朗読が行われました。この2つの福音朗読の内容は対照的です。

ミサの冒頭の福音朗読では、イエスのエルサレム入城が語られます。イエスは死を覚悟してエルサレムに入ります。非常に緊迫した場面です。この時、イエスが乗り物として選んだのはロバでした。当時、王様の乗り物として用いられたのは馬とロバだったという説があります。王が馬に乗る時、それは戦いの時です。そして平時、平和な時にはロバに乗ったとも言われます。イエスは、自分を亡き者にしようとする企みが進行しているのを知りながら、敢えて平和な時の乗り物であるロバを選ばれました。

もう一つの福音朗読はでは、受難、十字架の死が語られます。イエスの公生活がどれほどの期間だったかについては諸説があります。1年間という学者もいれば、3年ほどだったという学者もいます。いずれにせよ、その短い公生活の中には、幾つかの、貧しいながらも温かさ溢れる場面があります。たとえばイエスの降誕。あるいはガリラヤでの伝道の始まり。ガリラヤでは多くの人がイエスを追い求め、みことばに耳を傾け、空腹を満たされ、病を癒されました。しかし伝道が進むにつれ、敵対者が増えていき、殺意を抱く者も現れました。イエスは孤独で苦悩に満ちた日々を送られることになります。

そして受難の時が訪れます。その時、寝食を共にしてきた12使徒はどんな行動を取ったでしょう。ある弟子は銀貨30枚でイエスを売り渡しました。銀貨30枚は、今の日本のお金に換算すると数千円程度だとも言われます。また、当時、奴隷を売買する時の相場が銀貨30枚だったとも言われます。

リーダー格のペトロは、イエスを見捨てることができず、引き立てられるイエスに、遠く離れて従います。しかし、「お前もイエスの仲間か」と聞かれると、「知らない」「関係ない」と否定します。それまで「(イエスと)一緒に牢に入って死んでもいい」と言ってたにもかかわらず。他の弟子たちは、「イエスが殺されたら、次は自分が殺される」と恐怖に襲われ、クモの子を散らすように逃げ去りました。そしてイエスは一人にされてしまいます。

群衆は「十字架につけろ」と口々に叫びました。きっとその群衆の中には、イエスに病を癒された人、慰められた人もいたはずです。

今日の長い福音朗読の中に、イエスが語られた言葉はたった2つしかありません。1つ目は、ピラトから「お前がユダヤ人の王なのか」と問われた時の「それは、あなたがたが言っていることです」という返事。2つ目は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びです。この叫びと共に、イエスは息を引き取り、生涯を終えました。エリ、エリ、レマ、サバクタニ。なぜ、イエスはこの言葉を叫ばれたのか。また、なぜ聖書から、この言葉が消されなかったのか。後の世に大きな疑問を残したとも言われています。

イエスは生涯の終わり、弟子からも、人々からも、神からも見捨てられたと感じたのだ、と考える人もいます。しかし別の考え方もあります。私たちのうち誰かが「天におられる私たちの父よ」と言ったら、周りの人は、「主の祈りを唱えているのだな」と了解します。そして「み名が聖とされますように」と一緒に唱えるでしょう。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。これは詩編22の冒頭の言葉です。この詩編は、絶望の叫びから始まりながら、最後には神への信頼と賛美へと至ります。イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ぶことで、神に見捨てられたかとも思われる絶望から信頼、希望へと至る詩編のメッセージを語られたとも考えられます。

あるいは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は、「私が命をかけて愛したあなた(たち)が、なぜ、私を見捨てるのか」というイエスさまから弟子たち、私たちへの問いかけであるとも考えらます。

ペトロはイエスが十字架につけられる前に3度、「イエスを知らない」と言いました。そのペトロに、復活の後、イエスは3度、「私を愛しているか」と問いかけます。私たちなら、「なぜ3度も『知らない』と言ったのか」と詰問するかも知れません。しかしイエスはただ、「私を愛するか」と聞かれます。私たち一人ひとりに対しても、イエスはただ、「愛するか」と問われます。私たちのために十字架につけられても、十字架の上からも、イエスは私たちを愛して下さいました。それは、「なぜ愛するのか」と愛する理由を問う愛ではありません。「なぜ赦すのか」と赦す理由を問う赦しではありません。それこそが神の愛、アガペーです。

今日の福音朗読の中心的テーマは「イエスとは誰か」という問いです。聖書は、イエスを十字架につけた人々の口を通じて、イエスとは一体誰なのかを語ります。「本当に、この人は神の子だった」と百人隊長たちは言いました。私たちも「イエスは誰なのか」という問いに自分なりの結論を出して、洗礼を受け、信仰の道を歩んでいます。しかし聖週間を迎えるにあたり、もう一度、「イエスとは誰なのか」を自分に問い直し、信仰を見つめ直したいと思います。

この説教本文は

平和の使徒推進本部が祇園カトリック教会主任司祭から転載の許諾をもらっています。

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