2月16日 平林冬樹神父(祇園カトリック教会,2014年2月19日確認)

カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 推進本部取組 / 第1の柱:平和

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最終更新日:2014年2月19日

祇園カトリック教会ホームページ(ブログ)「2月16日 平林冬樹神父(祇園カトリック教会)」が更新されました。

説教本文

聖書、ことに福音書は「喜びのニュース」です。ですから福音書のどこを読んでも、必ず幸福と慰めを与えられるはずです。もし、ある福音書の箇所を読んで「ひどい、厳しすぎる」と感じるなら、それは福音のメッセージをちゃんと理解していないことになります。今日の福音朗読の箇所も、かなり「厳しい」と感じられるかも知れません。しかし、この箇所から喜び、慰めのメッセージを読み取るよう、正しく理解しなければなりません。

幸せ、慰めとはどのようなものでしょう。くたくたになって、やれやれと座り込む。もう歩かなくてもいい。それも慰めの一つかも知れません。しかし、神さまの慰めは、むしろ「もう動けない」とへたり込んでいる時に「さあ、安心しなさい」と、信仰の道へと再び歩み出す元気を与えてくださるものです。

今日の福音朗読で、イエスさまは「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われます。ここから喜び、慰めのメッセージを読み取るのは難しいかも知れません。「そんなに厳しいのなら、もう(信仰の道を)歩むことはできない」と諦めてしまう人だっているかも知れません。では、このイエスさまの言葉のどこに「慰め」があるのでしょう。それを理解するには、律法学者やファリサイ派の「義」とは何かを知らねばなりません。彼らの「義」「正しさ」とは、どういうことか。それは神さまから「あなたは正しい」と認められ、その結果として神の国に入れますよ、ということです。

ファリサイ派の「義」に似たものが、かつてのカトリック教会にはあったように思います。掟を守り、徳を積み、正しい生き方をすれば天国に行ける。最後の審判で判定を下され、「よい」なら天国、「ダメ」なら地獄、というのは、ある意味では分かりやすい考え方です。しかしそれでは下手をすると、律法学者やファリサイ派の「義」と同じになってしまいます。一方で、神さまの恵み、神さまからいただいた信仰によって天の国に入る、という考え方があります。だったら正しい信心、正しい行いなどいらない。ただ神さま、イエスさまを神事さえすればよい、ということになります。どちらが本当の答えなのか。それはマタイの時代にもあった問題です。神さまの恵みによって天の国に入れていただけるのなら、なぜイエスさまは「律法を守りなさい」と言われたのか。そんな戸惑いがあったかも知れません。

この問題を解く鍵は、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」というイエスさまの言葉の中にあります。ここで用いられている「勝る」は、競争してどちらかが勝る、優れている、という意味ではなく、原語では「満ちている」というニュアンスの言葉です。つまり「あなたの生活が義に満ちていなければ」とイエスさまは言われるのです。そしてイエスさまは、私たちの生活が「義」に満ちたものになる、そのために私たちのもとに来て下さったのです。

「神さま、見てください。私は 律法(掟)を守っています」というのは、あまりに自分中心の態度です。これは「義の完成」とはとても言えません。ローマ人への手紙13章10節には、「愛は律法を全うするもの」という言葉があります。またコリントの信徒への手紙13章には、有名な「愛の讃歌」があります。律法の完成は「愛」です。イエスさまご自身が本当の愛によって私たちのために十字架に架けられなかったら、律法は完成しないのです。私たちも自然的に人を愛することはできます。しかし神さまから人への愛、本当の愛は、イエスさまの十字架の死と復活によってしか表されません。人間社会は「報い」の社会です。親切にされた人には親切にする。快く思っていない人には友好的でない態度を取る。「これだけ徳を積んだから天国に入れてください」というも同じ考えです。それは神さまの「義」ではありません。

神さまは「私が造った人間を、必ず幸せにする」と、ご自分でご自分に掟を課されます。そしてその掟を忠実に実行されます。しかし人間は弱くて、すぐに神さまから離れ、逃げ出してしまいます。それでも、どんなに人間が弱くても、ふらふらしていても、それだからこそ苦しみの中でもがいている私たちのもとにイエスさまを送り、天の国への道筋をつけて下さったのです。イエスさまが十字架に架かられたのは、「正しい人」を救うためではなくダメな人間を救うためです。

神さまは「罪を「どうでもいいもの」にはしておかれません。罪の中にある人が少しでも早く、そこから脱することができるよう、罪にとらわれている人に、その心の弱さを気づかせて下さいます。自分の弱さを知るところから、神の愛に生きる、神の愛に生かされていることへの感謝、喜びが溢れてきます。それこそがファリサイ派に勝る「義」に至る道です。

フラフラしている弱い人間を救うために、御独り子を十字架の死につかせるほどに、神さまは私たち人間を愛して下さいます。イエスさまがおられねからこそ、私たちは愛に生きられる。愛に生きることが「できる」のではなく、神さまが愛に生きるように「させてくださる」のです。今日の福音朗読に示された「義に満たされて生きる」という課題。その道筋は、すでにイエスさまによってつけられています。このことを改めて心に刻みたいと思います。

この説教本文は

平和の使徒推進本部が祇園カトリック教会主任司祭から転載の許諾をもらっています。

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