12月8日 近藤信神父(祇園カトリック教会,2013年12月11日確認)

カテゴリー(記事区分): 教区取組 / 推進本部取組 / 第1の柱:平和

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最終更新日:2013年12月11日

祇園カトリック教会ホームページ(ブログ)「12月8日 近藤信神父(祇園カトリック教会)」が更新されました。

説教本文

今日の福音朗読で、洗礼者ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言っています。「ふさわしい実」とは何でしょうか。それは「謙遜」です。そして、せいれいの実(たまもの)である平安と喜びを得ることです。

昔、長束の修練院にいた時、貫(ぬき)さんというブラザーがいました。彼は私に言いました。「近藤さん、祈っていると、もっと謙遜になりたいという気持ちになります」。貫さんの深い霊性を心に感じる言葉です。

ずっと前のことですが、東京から飛行機に乗り、広島空港からバスで中筋駅に着きました。そこからタクシーに乗ったのですが、何と財布がない。どこかに落としてしまったのです。長束の修練院にたどり着き、夜も遅いので、翌日、警察に届けを出しに行きました。警察で色んな書類を書かされました。20分ほど経つと、婦警さんがやってきて「近藤さん、来てください」と別の部屋に連れていかれました。まるで取り調べです。幸い、窓に鉄格子はありませんでしたが。婦警さんに、いつ、何を落としたのかなどなど色々と「尋問」されました。そこに、ひょっこりと、私の財布を拾ってくれた人がそれを届けに来てくれ、お金は無事戻りました。「よかったですね」。婦警さんが、そんな優しい声をかけてくれると期待していたのに、婦警さんの口調は、厳しいままでした。私はおおののきました。財布を落とすのは犯罪なのか。それは、色々な人に迷惑をかけたのが悪い、と言われればその通りですが。優しさもいたわりも感じられない、共に喜ぶ心も感じられない婦警さんの態度に、私はの心は萎(しお)れました。そして次第に怒りがわいてきました。公務員とは、人に仕えるではないのか。何で私が犯罪者扱いされなきゃならないのか、と。心はぐるぐると苛立ち、涙が浮かんできました。

そこで私は、自分の心を糺明してみした。なぜ、心が荒んでしまったのか。それは傲慢からだと気づきました。傲慢から、私は喜びを棄て、怒りを燃やしたのです。謙遜の心を持っていれば、相手がどのような態度を取ろうと、ありがたく財布を返していただき、喜んで帰ったことでしょう。さらに考えました。神さまが、なぜ私に、そのような経験をさせたのか。それは「謙遜になりなさい。聖霊から来る平安と喜びを得なさい」という神さまの導きではないか。

日常生活では、突然、思わぬことが起きます。夫婦、親子、兄弟でいさかいを起こすこともあります。そして心が波立ちます。そんな時、糺明が大切です。

待降節は、キリストを待つ準備の時です。この1年、私たちはどのような体験をしてきたのかを、静けさと喜びの中でイエスさまの誕生を待つ中で糺明するのが、この時期です。とは言え、世の中はクリスマス前の騒がしさに包まれています。それでも静かな心になり、神さまの声に耳を傾けましょう。平安、喜びで心が満たされるように祈りましょう。神さまのお恵みがなければ、その平安、喜びは得られません。ご降誕を前に、神さまに、この(ミサの)静かな雰囲気の中で祈りを捧げ、糺明する心を神さまから恵んでいただきましょう。

この説教本文は

平和の使徒推進本部が祇園カトリック教会主任司祭から転載の許諾をもらっています。

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